エーリヒ・ハルトマン 第二次世界大戦での戦闘記録

エーリヒ・ハルトマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/23 17:17 UTC 版)

第二次世界大戦での戦闘記録

  • 1942年10月:東部戦線、第52戦闘航空団第III飛行隊第7中隊(7./III./JG52)に配属。
  • 1942年 10月14日:初出撃。
  • 1942年 11月5日:初めて敵機を撃墜するものの近づきすぎていたため破片を浴び不時着。
  • 1943年 3月24日:5機撃墜、功2級鉄十字章を授与。
  • 1943年 4月:110回出撃で編隊長になる資格を得る。
  • 1943年 8月3日:撃墜数が50機に達する。
  • 1943年 8月19日:ソ連領内に不時着、ソ連兵に捕まるが脱出に成功し帰還。
  • 1943年 9月2日:第9中隊長に任命。コール・サインは「カラヤ・アイン(カラヤ中隊の1番機)」。
  • 1943年 10月29日:撃墜数が148機に達し、騎士鉄十字章を受章。
  • 1944年 3月2日:202機撃墜数の功で柏葉付騎士鉄十字章受章。
  • 1944年 5月:東部戦線崩壊の余波を受け、第52戦闘航空団はクリミアから撤収。
  • 1944年 6月:第52戦闘航空団はルーマニアの油田防衛の任に就く。
  • 1944年 7月24日:239機撃墜の功で柏葉・剣付騎士鉄十字章受章(受章時には269機撃墜)。
  • 1944年 8月23日:撃墜数が291機に達する。
  • 1944年 8月24日:第1回目の出撃で6機撃墜。同日、2回目の出撃で撃墜数が301機に達する。
  • 1944年 8月25日:柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章受章。
  • 1945年 1月:ターボ・ジェット・エンジンを搭載した戦闘機Me262への転換訓練を受けるが、1ヶ月でJG52に復帰。
  • 1945年 2月:第52戦闘航空団の第I飛行隊長に任命。
  • 1945年 4月4日:撃墜数が350機に達する
  • 1945年 5月8日:1405回目の最後の出撃。この時もソ連機に奇襲をかけYak-1を1機撃墜し煙に紛れて離脱。一方、誰に撃墜されたのかわからなかったソ連機編隊はたまたま近くを飛行していたアメリカ軍機編隊に攻撃を仕掛け、米ソの同士討ちを演じたという。
同日、ドイツは連合国に降伏したため、ハルトマンは最終撃墜数352機、被撃墜16回で終戦を迎える。

  1. ^ 初撃墜から150機撃墜までの記録が残っている。352機までの記録も存在したが、こちらは終戦時に米軍あるいはチェコスロバキア軍により接収され行方不明
  2. ^ 但し一度だけ僚機が撃墜された事がある。戦争末期戦闘機パイロットの補充のため爆撃機パイロットであったギュンター・カピト少佐が機種転換訓練も受けずにハルトマンの戦隊に配属された。ハルトマンは出撃しても生き残れないと考え彼の出撃を制限していたが、10歳以上年長でかつ階級も上の彼の出撃を認めよとの催促に負けて僚機として出撃を許可した。しかし、彼はソ連のエースパイロット機に撃墜されてしまう。幸い不時着し事無きを得た。なお、戦後ハルトマンと一緒に捕虜となり10年抑留生活を送ったが、彼はハルトマンに対してこの時のことについて感謝の意を示している。事実、ハルトマンの僚機を務めた者で彼と行動中に戦死した者はいない。


「エーリヒ・ハルトマン」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エーリヒ・ハルトマン」の関連用語

エーリヒ・ハルトマンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エーリヒ・ハルトマンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエーリヒ・ハルトマン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS