イラン建国二千五百年祭典 治安

イラン建国二千五百年祭典

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/31 21:45 UTC 版)

治安

この行事において、治安は大きな課題であった。ペルセポリスは孤立しており、厳重な警戒を行なうことが可能で、世界中の指導者たちが集うことを思えば、祭典を行うには好ましい場所であった。当時のイランの秘密警察SAVAKは、トラブルを生じさせる虞れがあると疑われる者は、誰であれ予防拘禁した[1]

批判

西側の報道ではこの祭典を批判する声が挙り、ホメイニーやその支持者たちも声を上げ、ホメイニーはこの祭典を「悪魔の祭典」と呼んだ[1]。祭典の費用は2億ドルとも言われたが、当時のイラン宮内省は1700万ドル、祭典を運営する側のひとりであったアンサリという人物は2200万ドルという数字を述べていた[1]。実際の金額を確定することは困難であり、党派性が絡む問題となる。祭典を擁護する側は、一連の祭典行事とともに建国記念の事業として3200もの学校の新規開設、インフラストラクチャーの整備、イランの国際的な宣伝となったことなどの効果を強調している。

招待客

金貨と銀貨9枚のセットとして鋳造された祭典の記念硬貨のひとつ、200リヤル銀貨。

イギリスエリザベス2世は、治安問題を考慮して出席を見送るよう勧められた[1]。祭典には、女王の名代として、エディンバラ公フィリップ王配アン王女が出席した[8]。他に参加を見送った指導者にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンフランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥーがいた。ニクソンは当初は出席する意向だったが、後に考えを変え、副大統領スピロ・アグニューを代理として派遣した[1]中華人民共和国からは郭沫若全国人民代表大会副委員長が当初出席する予定だったが、体調を理由に駐パキスタン大使が代理として派遣された[9]

当時は冷戦時代だったが、西側諸国東側諸国非同盟諸国の枠を超えて以下の人々が招待され、出席した。

王族など

大統領、首相など

跡地

ペルセポリスのテント・シティ跡、2007年撮影。

ペルセポリスはその後もイラン有数の観光地となっており、イランの歴史を伝える、考古学上の遺跡を保全する措置が必要だとする声が上がっている[8]2005年には、イラン暦の新年の休日期間中だけで、35,000 人の観光客が来訪した[8]

テント・シティは、1979年まで、民間や行政の求めに応じて貸出されていたが、シャーの国外逃亡後に、地域の住民たちによって破壊された。テントの鉄製の骨組みはまだ残されており、敷地は公園のように自由に立ち入ることができるようになっているが、これが何であったのかといった説明板などは設けられていない[17]テヘランのアザディ・タワーは、大きなランドマークとなっている。イラン革命の後、レザー・シャー・パフラヴィーの大霊廟は破壊され、跡地にはイスラム教の宗教学校が設けられた。


  1. ^ a b c d e f g h Kadivar, Cyrus (2002年1月25日). “We are awake. 2,500-year celebrations revisited”. The Iranian. http://iranian.com/CyrusKadivar/2002/January/2500/index.html 2006年10月23日閲覧。 
  2. ^ Van Kemenade, Willem (2009年11月). “Iran's relations with China and the West”. Clingendael. 2013年8月9日閲覧。
  3. ^ Karkowski, Z.; Harley, J.; Szymanksi, F.; Gable, B. (2002). “Liner Notes”. Iannis Xenakis: Persepolis + Remixes. San Francisco: Asphodel LTD. 
  4. ^ a b The Persepolis Celebrations”. 2006年10月23日閲覧。
  5. ^ キュロスの円筒碑文について大英博物館は以下のように注釈を加えている。:100年ほどの間、この円筒は、古代メソポタミアにおける宣伝物であると考えられていた。しかし、1971年にイランのシャーが、イランの君主制2500周年という彼自身の宣伝活動の中でこれを中心的なイメージとして使用したことによって、変化が起こった。イランでは、硬貨や紙幣、切手などにこの円筒が描かれるようになった。バビロニアの碑文であるにもかかわらず、この円筒はイランの文化的アイデンティティの一部となったのである。
  6. ^ Neil MacGregor, "The whole world in our hands", in Art and Cultural Heritage: Law, Policy, and Practice, p. 383–4, ed. Barbara T. Hoffman. Cambridge University Press, 2006. ISBN 0-521-85764-3
  7. ^ The Persepolis Project”. Cornell Council for Arts. 2013年8月8日閲覧。
  8. ^ a b c d e Tait, Robert (2005年9月22日). “Iran to rebuild spectacular tent city at Persepolis”. The Guardian. http://www.theguardian.com/world/2005/sep/22/arts.iran 2013年8月8日閲覧。 
  9. ^ 庶英, 郭 (2004年8月24日). “忆父亲郭沫若”. Guangming Online. 2018年1月18日閲覧。
  10. ^ ビルキス・ベグム (Bilqis Begum、1932年 - ) は国王ザーヒル・シャーの長女。 ワリ・ハーンはその夫で、国王からみれば娘婿。
  11. ^ ベグム・オム・ハビベー・アーガー・ハーンは、アーガー・ハーン3世アーガー・ハーン4世の祖父)の第4夫人。
  12. ^ その後、1973年カール16世グスタフとして国王に即位。
  13. ^ その後、1975年にフアン・カルロスはフアン・カルロス1世として国王に即位し、ソフィアは王妃となった。
  14. ^ 1946年以降、共和国となったイタリアには、王族や貴族は存在しないが、最後のイタリア国王ウンベルト2世の子であるヴィットーリオ・エマヌエーレは、王位請求者としてイタリア王、ないし、ナポリ公爵として遇されることがあった。
  15. ^ 天皇・皇族の外国ご訪問一覧表(戦後)(昭和28年~昭和63年) - 宮内庁
  16. ^ 祭典の当時は、スワジランド首相に在任中(1967年 - 1976年)であった。
  17. ^ Iran Daily (23 June 2007年6月23日). “Team Named For Renovating Persepolis”. 9 March 2008年3月9日閲覧。


「イラン建国二千五百年祭典」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イラン建国二千五百年祭典」の関連用語

イラン建国二千五百年祭典のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イラン建国二千五百年祭典のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイラン建国二千五百年祭典 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS