ペルセポリスのテント・シティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 23:47 UTC 版)
「イラン建国二千五百年祭典」の記事における「ペルセポリスのテント・シティ」の解説
「金色の都市 (Golden City)」とも称された「テント・シティ (Tent City)」は、パリのインテリアデザイン会社メゾン・ジャンセン (Maison Jansen) によって、1520年にフランス王フランソワ1世とイングランド王ヘンリー8世が会見した金襴の陣に示唆を得て、160エーカー (0.65 km2)の敷地に計画された。50張りの「テント」(実際には、プレハブ工法によって建てられた豪華なアパートにペルシアの伝統的なテント布を張り巡らせたもの)が、中央の噴水を中心に星型に配置され、砂漠のただ中であるにもかかわらずその周囲には膨大な量の樹木が植樹され、古代都市ペルセポリスの姿の一端が再現された。テントにはそれぞれ出席者の母国と直接つながれた直通電話とテレックスが用意され、祭典行事は全体が、現地からの衛星中継によって世界中に放映された。巨大な「栄誉のテント (Tent of Honor)」が設けられ、賓客たちへの接遇の場とされた。最大の施設であった「宴会場 (Banqueting Hall)」は、68メートル×24メートルの大きさがあった。テントの周りの庭には、フランスやその近隣諸国から、ペルセポリスの遺跡へと空輸された樹木その他の植物が植栽されていた。ケータリングを担ったマキシム・ド・パリは、この豪奢な祝典を賄うために、パリの本店のレストランを2週間ほど休業した。廷臣たちの制服はランバンがデザインした。空港と現地の間の賓客の送迎には、250台の赤いメルセデス・ベンツのリムジンが使用された。食器類はリモージュ磁器で製造され、リンネル類はデ・ポルトー (D.Porthault) が供給した。
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