三条西実隆とは? わかりやすく解説

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さんじょうにし‐さねたか〔サンデウにし‐〕【三条西実隆】

読み方:さんじょうにしさねたか

[1455~1537]室町後期公家歌人内大臣に至る。号、聴出家して逍遥院尭空。飛鳥井雅親(あすかいまさちか)に和歌学び飯尾宗祇から古今伝授を受け、古典普及努めたまた、能書家としても知られる。著「源氏物語細流抄」、歌集雪玉集」、日記実隆公記」など。


三条西実隆

読み方さんじょうにし さねたか

室町後期公卿歌人内大臣三条西公保次男初名は公世・公延、法名は尭空・逍遥院。号は耕隠・聴正二位内大臣に至る。宗祇より古今伝授をうけ、飛鳥井雅康和歌を学ぶ。一条兼良と共に室町後期文教支えた門人に武野紹鷗らがいる。歌集雪玉集』や日記実隆公記』がある。天文6年(1537)歿、83才。

三条西実隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/04 09:42 UTC 版)

 
三条西 実隆
京都府二尊院蔵
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 康正元年4月25日1455年5月11日
死没 天文6年10月3日1537年11月5日
改名 公世(初名)→公延→実隆
戒名 逍遥院尭空
墓所 二尊院
官位 正二位内大臣
主君 後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇
氏族 三条西家
父母 父:三条西公保
母:甘露寺房長
兄弟 実連、実隆、女子
孟光(勧修寺教秀三女)
保子、公順、公条正親町実胤室、鳳岡桂陽、勝興寺顕栄室
猶子:亮恵
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三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿内大臣三条西公保の次男。官位正二位・内大臣。能書家でもあった[1]

経歴

京都武者小路の邸で誕生した。当初の名は公世。

長禄2年(1458年)、兄・実連が死去し、家督相続者として扱われ従五位下に叙され、このとき公延と改名する。2日後に侍従に任官。寛正元年(1460年)、父・公保が死去する。このため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。

応仁元年(1467年)、京都応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開。乱により三条西邸も焼失している。文明元年(1469年)、元服と同時に右近衛権少将に進み、実隆と改名する。永正3年(1506年)、内大臣となるが在職わずか2か月、任大臣大饗も開かずに致仕。永正13年(1516年)に出家。

人物

三条西実隆像紙形[注釈 1]
土佐光信筆

後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門の寵妃や、後柏原の女御で後奈良の生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。

室町幕府将軍の足利義政足利義澄若狭国守護武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。古筆の鑑定も能くし、宗祇から小倉懐紙の鑑定を依頼されたことが『実隆公記』にみえる。また、連歌師の山崎宗鑑とも親しく交友した。武野紹鷗茶道を教え、大和国国人十市遠忠に和歌を教えるなど、貴族に多大な影響を与えた[2]将棋囲碁にも熱中し、将棋の駒の字も書いた[3]

また、周防国大内義隆駿河国今川氏親とも親交が深かった。なお、実隆には当時としては珍しく側室がいなかった。

漢文日記『実隆公記』は、史料的価値もある。歌集に『雪玉集』『聞雪集』、著作に『詠歌大概抄』『高野山参詣記』など。源氏物語に関しては、系図として革新的な『実隆本源氏物語系図』を作った他、子・公条が『明星抄』を著す基礎も作った。浄土宗を信仰していた。

長男の出家と次男の家督相続

長享2年(1488年)3月、実隆は当時5歳であった長男・公順を差し置き、生後9ヶ月(数え年で2歳)の次男・公条を家督継承者と定め、朝廷へ叙爵を申請した。同月5日、公条は従五位下に叙せられた。

継承者決定の経緯

『実隆公記』同日の条によると、実隆は当初、息子たちを「悉可入釈門(全員出家させる)」つもりであった。これは、もし子供たちに抜群の才能がない場合、無理に家を継がせても世間の嘲笑を買い、先祖の名を汚すだけで何の益もないと考えていたためである。
しかし、当時の公家社会では、数年間断絶していた家が他氏他門からの養子によって継承されたり、一度出家した者が還俗して家を継ぐ事例が散見された。実隆は日記の中で、こうした風潮を「以狗続貂」や「裁竹修木」ような不当な行いであると強く批判し、自身の家でそのような事態が起きることを危惧した。その結果、実隆は前言を翻し、運を天に任せて実子による家督継承を決断したとされる。

次男相続の選定理由

長男ではなく次男の公条が選ばれた理由については、以下の二点が挙げられる。

  • 三条西家の嘉例:三条西家の始祖である三条西公時、実隆の父・公保、そして実隆自身がいずれも次男であったことから、実隆は「次男相続」を当家における吉例と見なしていた。
  • 長男への誓願:長男の公順に関しては、出生時から「春日大明神に奉仕させる」という誓願が立てられていた。このため、公条の叙爵が決まった直後、公順は東大寺西室の公恵僧正の附弟となることが決定された。

公条の名の由来

公条の「条」の字について、実隆は『韻鏡』や『礼記』を参照し、「条」が「枝」や「条理」に通じ、分家(枝葉)である三条西家にふさわしい字であると考証している。また、文徳天皇の皇子・惟条親王の先例を挙げ、字義や字形が神妙であり、先祖の字にも似ているとして自賛している。

公条叙爵の時期と本家の先例

公条の叙爵が3月5日に行われたことにも、明確な意図があった。実隆は本家(正親町三条家)の先例を調査し、3月が八条内大臣(正親町三条公秀)や後八条内大臣(正親町三条実継)が従五位上に叙された月であることを確認している。
実隆は日記の中で、本家の祖先が栄爵を受けたこの月を「嘉躅」であるとし、あえてこの吉例に倣って申請を行った旨を記している。また、3月5日という日付についても「吉日」であると同時に、多くの幸運が重なる「多分」の日であるとして喜んでいる。

系譜

以下、主に柴田真一・原勝郎の研究による[4][5]

伝記・研究

脚注

注釈

  1. ^ 伝えられるところでは、文亀元年(1501年)に描かれたとされ、この時実隆は47歳であった。

出典

  1. ^ 【戦国こぼれ話】現在は学者受難の時代?戦国時代は重要だった知識人たち!(渡邊大門)”. Yahoo!ニュース (2020年10月5日). 2020年12月22日閲覧。
  2. ^ 源城政好編『図解雑学戦国史』(ナツメ社、2005年)151頁
  3. ^ 増川 1987, p. 60.
  4. ^ 柴田 1992, p. 10.
  5. ^ 原 1978, p. 50.
  6. ^ 『雲竜山勝興寺系譜』
  7. ^ 金龍 1984, p. 71.
  8. ^ 櫛田 1979, p. 399.

参考文献




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