P・T・バーナムとの契約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 03:11 UTC 版)
「アンナ・ベイツ」の記事における「P・T・バーナムとの契約」の解説
1862年、アメリカ合衆国の名高い興行師P・T・バーナム(後にリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスの前身となるサーカスを創始した)は、ノバスコシアにいる「大きな女の子」の話を聞きつけた。バーナムは代理人をアンナが当時住んでいたニューアナンに派遣し、当時16歳のアンナと彼女の母親をニューヨークに招聘した。 アンナは文学および音楽的な素養に優れ、非常に知的な女性とみなされていた。バーナムの招聘は、より良い教育を受けたいと望んでいたアンナにとって願ってもないことであった。バーナムと一か月あたり1,000ドルの報酬で契約した上で、3年間にわたって1日当たり3時間の家庭教師からの個人指導を受けるという条件にアンナは喜んでいた。彼女は演技やピアノ、声楽も学び、優秀な成績を修めていた。アンナは劇でマクベス夫人を演じたこともあった。 バーナムはアンナを身長2.46メートル(8フィート1インチ)の「世界でもっとも背の高い女の子」として大々的に宣伝し、91.4メートル(100ヤード)のサテンと45.7メートル(50ヤード)のレースで作った衣装をあつらえて身なりを整えた。バーナムは自分のもとで働いていた身長73.7センチメートル(29インチ)、体重10.9キログラム(24ポンド)の小人症の男性コモドール・ナット(英語版)とアンナを対比させた。アンナは彼女を見に訪れた観衆と会話し、お互いに楽しんでいた。アンナはショーの一環として、ウエスト廻りを測る巻尺を使っていた。観衆の中の女性がその巻尺で自分のウエスト廻りを測ったところ、普通の女性ではその巻尺がウエスト廻りを3回巻くほどであった。後にバーナムはアンナについて「知的で、決して悪相ではない少女であり、彼女が私のもとにいた長い間に大勢の人が訪れてくれました」と記述を残している。 1865年7月13日、アンナはニューヨークのバーナムのアメリカ博物館(英語版)で火災に遭い、危うく焼死するところであった。階段は炎に包まれていた上に、アンナの体は窓から脱出するには大きすぎて無理だった。アンナは恐怖からパニックを起こし、救助に来た男性の体の上に倒れこむほどの状態であった。博物館の従業員が近所でデリックを見つけ、3階の窓の周囲を破壊した上で男性18人がかりでアンナの体を滑車とロープで吊り上げて救助することに成功した。この火事の頃、アンナの体重は179キログラム(394ポンド)あった。通常時の体重は159キログラム(350ポンド)で、最高時の体重は187.3キログラム(413ポンド)だった。 火事の後、アンナは静養のために故郷に戻ることになった。ただし、すぐにバーナムが新たに開設した博物館の興行に出演するためにニューヨークに戻った。しかし、この博物館も不審火によって1868年に焼失した。その年の夏にアンナは故郷の家族を訪れ、アメリカ合衆国に戻る前にノバスコシア州で博覧会に出演した。アンナは巡業旅行に出ることになり、1869年にはイギリスを訪れた。この頃のアンナについて新聞記者が「立っているときはすべての男性より抜きん出ていて、座っているときには大部分の女性よりも抜きん出ている。顔の輪郭は卵型で、声は優しく、話し方は物柔らかだ」と発言した。アンナはこのとき、王室にも紹介された。
※この「P・T・バーナムとの契約」の解説は、「アンナ・ベイツ」の解説の一部です。
「P・T・バーナムとの契約」を含む「アンナ・ベイツ」の記事については、「アンナ・ベイツ」の概要を参照ください。
- P・T・バーナムとの契約のページへのリンク