LST(戦車揚陸艦)による貨車航送
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「洞爺丸」の記事における「LST(戦車揚陸艦)による貨車航送」の解説
1945年(昭和20年)12月24日には、相次ぐ事故による貨車航送力の回復遅延に業を煮やした進駐軍は、貸与したLST(戦車揚陸艦)(排水量(計画満載)3,590トン)の車両甲板にレールを敷設して、車両渡船として使用するように命じた。これは、船首から貨車の積卸しをする方式で、車両甲板船首端では1線、車両甲板では3線となる船内配線で、連合軍がノルマンディー上陸作戦時に、イギリスの貨車をフランスへ航送するとき用いた方法であった。早速、 三菱重工横浜造船所で改装工事が行われたが、建築物等が線路に近付き過ぎてはならない限界を示す建築限界を無視した軌道配置を採らざるを得ず、さらに車両甲板に急勾配があるなど、問題も多く、小型無蓋車のトムとト限定で、積載車両数はトム換算20両となった。函館側は有川第4岸壁の裏側の、未完成の第5岸壁をLST専用とし、青森側は、当初は空襲で可動橋使用不能となっていた青森第3岸壁をLST専用として、1946年(昭和21年)3月31日から2隻のLSTが就航した。その後、1946年(昭和21年)7月1日からは青森側を、夏泊半島東側の小湊の工事未完の車両渡船岸壁の北側に急造したLST専用桟橋に移し、函館(有川) - 小湊間航路とした。なお、小湊では、戦時中の石炭列車航送増強のため、1943年(昭和18年)12月から車両渡船岸壁築造工事が進められていたが、終戦で工事は中断していた。しかしこのLSTは、喫水が船首で2.65m、船尾で3.97mと浅いため、風に流されやすく、1947年(昭和22年)1月27日にはQ022号が平館海峡東岸、貝埼沖で座礁大破し、以後稼働できず、同年8月20日には船舶運営会に引き渡された。残るQ021号はその後も稼働はしたが、片道8時間を要し、1日1往復しかできず、給油のため往復8日間もかけて横須賀まで行く有様で、逼迫した青函航路の窮状にとっては焼け石に水であった。このため、戦後建造のW型・H型車両渡船の連続就航を目前に控えた1948年(昭和23年)2月には運航終了となり、同年2月26日にアメリカ軍に返還された。
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