KWUと日本メーカーの技術協力協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:58 UTC 版)
「K-PWR」の記事における「KWUと日本メーカーの技術協力協定」の解説
1981年9月、東京電力は従来のBWR一辺倒の方針を転換し、K-PWR導入の準備を始めた。これに呼応して日立、東芝、富士電機の3社は相次いでKWU社と技術契約を結び、検討作業を開始した。 当時、東芝、日立はゼネラル・エレクトリックと共同で1978年より技術改善チームを組織、実質的な改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)の検討作業に着手していた。従ってKWUとの共同作業は東芝、日立にとってはABWR開発と並行となり、しかもABWRと比較して見かけ上3年の遅れがあったが、実態は正反対であった。ABWRは商業化された実機が存在していなかったのに対して、K-PWRは現物が動いているからであった。従って、JK-PWRの場合、発電システムに大規模な改設計を加える必要が無く、日本仕様の検討作業のみが実質的な課題であったと言える。この件を東芝の青井舒一(当時常務)は『日経産業新聞』の取材に対して説明した上で「最近になって電力会社の間で本格的に導入の検討をしてみようという意向が強まり、ようやく機が熟したという感じだ」と述べている。またもう一つの狙いとして「世界の主流となっている軽水炉の分野でユーザーの要望に合わせBWRもPWRもつくることができる」とプラントの海外輸出を見据えたメリットを挙げていた。しかし、この時点では東芝は本格導入を決定していた訳ではなく、PWRについては研究段階であった。日立は東芝にやや遅れてKWUと企業化調査に関する協力協定を結んだが、西政隆(当時常務)はその理由を「事故を起こした原子炉と同型のものの一斉停止といった事態を避けるためにも、炉型多様化は当然の流れだと思う」と述べている。また、日経産業新聞によれば日立の方が東芝より技術提携に積極的な態度を示していたという。また、富士電機の阿部栄夫(当時社長)はKWUの親会社であるジーメンスと深いつながりがあり、KWUと火力発電で提携していることを挙げ、西政隆同様スリーマイル島原子力発電所事故で世界中のPWRが緊急点検で停止した件を「非常に身に染みた」としていた。 一方、1981年12月に入る頃には日本国内で超大型の商談が表面化しつつあった。青森県六ヶ所村のむつ小川原開発計画の一つとして1970年に提案された原子力基地構想と石川県の珠洲原子力発電所計画である。六ヶ所では第一次計画として110万kW級原子炉4基を1990年の運転開始目標とし、最終的には原子炉22基を建設する計画で総額6兆円と言われる計画の説明が東京電力と東北電力の共同で行われた。珠洲では関西電力、中部電力、北陸電力の3社で原子力基地を建設し、その総電気出力は1000万kW、総額3兆円という計画であった。これらの構想を具体的に検討するに当たり、上述の複数炉型導入が挙げられ、市場創出の点からも、ABWR、APWRと十分に並立すると見込まれたという。これらの計画は実現しなかったが、メーカーと電力各社の将来予測に影響を与えていた。
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