KPK制度導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:32 UTC 版)
上述した通り、競輪人気にかげりが見えてきた原因は、度重なる暴動事件や施設の老朽化に加え、機械式発券機導入・場内浄化の著しい遅れなどもあるが、ギャンブルとしての競技運営面においても問題点を抱えていたことも挙げられる。 1967年(昭和42年)以降、競輪選手の級班制度はA級(1 - 5班)・B級(1 - 2班)の「2層7班制」となっていたが、当時の最上位であるA級1班(A1)選手にあっせんが行われる記念開催(現在のGIII)では、A級で最下位であったA級5班(A5)と直接対決する競走も見られた。 当時のA1選手は全体で100〜120名程度しかおらず、同じA級でも実力面で大きな開きがあったため、記念開催の準決勝では「レース前から勝負は決まっている」と言われ、配当もおしなべて低配当となる競走も多くみられた。この影響により予想の楽しみが消え、「当たっても儲からない」「当たってもトリガミ(手にする払戻金が購入金額を下回ること)」という印象をファンに抱かせたことで競輪離れを招いた。一方、競艇は1競走が競輪より少ない最大6艇立てではあるが極度の低配当とはなりにくく、それが競艇に客が流れて行った一因ではないかという見方が一部の競輪関係団体から上がってきた。 こうした背景を踏まえ、1983年4月1日の開催からA級のさらに上位のクラスとして「S級(1 - 3班)」を設け、B級はそのままとしつつ、A級1 - 5班をS級1 - 3班とA級1 - 4班とに再編した「3層9班制」からなる競輪プログラム改革構想(略称「KPK」)をスタートさせた。KPKの導入により、競走は脚力が拮抗した選手による激しいレース展開へ生まれ変わった一方で、導入初期より落車・失格が急増し、配当も中配当(中穴)レベルが急増したため「車券が急激に取りにくくなった」という声がファンから上がってきた。 1975年以降、日本人のレジャー志向が「インドア」から「アウトドア」へ移行しており、本場(レース場)へ行かなければ投票券等も買えない公営競技は、都心の便利な立地に場外馬券発売所(現在のWINS)が集結する中央競馬を除き、「時代遅れのレジャー」と言われるようになった。中央競馬だけは総売上が対前年比増を継続していたが、それ以外の4団体は1981年度以降、軒並み前年割れを続けていった。 なお、元選手の矢﨑和良が1979年(昭和54年)に「有限会社メダリストプランニング」を立ち上げ、プロテクターシャツや新繊維のレーサーパンツを、選手のケガ対策の観点から開発した(2017年破産)。
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