32連敗、引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:57 UTC 版)
夏の休養を経て、秋はクラシック最終戦の菊花賞を目標に、10月のオープン戦から始動するが、牝馬のインタースマッシュから1.8秒離されての6着と大敗。迎えた菊花賞では7番人気と評価を落とし、ノースガストの10着に終わった。以降、オペックホースは連敗を重ねる。5歳になった1981年は9戦全敗するも、オープンと朝日チャレンジカップ2着、年末の有馬記念でアンバーシャダイの4着と好走は見せていた。しかし天皇賞(春)はカツラノハイセイコの12着、宝塚記念はカツアールの6着に敗れた。6歳になった1982年は左前脚の深管骨瘤に悩まされたり、軽い熱発はあったものの6度出走。初戦のマイラーズカップ3着を最後に好走もほとんどなくなり、天皇賞(春)はモンテプリンスの7着、有馬記念はヒカリデユールの9着に敗れた。7歳になった1983年は7度の出走で、6度は春季であった。マイラーズカップの3着が最高で、天皇賞(春)はアンバーシャダイの8着、宝塚記念はハギノカムイオーの7着であった。人気もそれぞれ15頭中13番人気、13頭中11番人気であり、ダービー馬の栄光は完全に色褪せたものとなっていた。関係者もさすがに引退を決意し、日本中央競馬会の種牡馬適性試験を受験するも不合格と判定。地方競馬転出の話も取り沙汰されたが、「ダービー馬を地方で走らせるのはかわいそう」という声が挙がり実現しなかった。8歳となった1984年は金杯(西)から鳴尾記念まで重賞を5度出走するも、5着、5着、7着、8着、6着。佐藤と角田輝雄オーナーは平地競走での限界を感じて、障害転向を決意。練習が始められると、オペックホースは周囲が目を見張るほどの卓越した飛越能力を見せた。障害馬として「ケタが違った」能力で、佐藤は中山大障害優勝に自信を深めたが、障害転向が現実味を帯びるに連れて、ダービー馬を障害競走に出すことへの批判が高まっていった。ファンからも抗議の声が殺到し、最終的に角田が批判に耐えきれず、障害転向は白紙撤回となった。佐藤は競馬会に対して「もし中山大障害を勝ったら、もう一度種牡馬試験を受けるので買い上げて欲しい」と陳情しており、後年この騒動を回顧し、「ゼニ金の問題と違う。あくまでも馬の一代を思い、障害でも実績を作って、種牡馬にしてやりたいという考えだった」と語っている。その後は秋まで休養し、朝日CCを12着の最下位入線。続く京都のトパーズステークスは8着に敗れ、12月のウインターステークスが引退レースとなったが、ゴール前で左繋靱帯断裂を発症。あのダービー以降ついに未勝利で競走生活から退いた。ダービー以降32連敗という記録は、1959年の優勝馬コマツヒカリの14連敗(但しコマツヒカリはダービー後15戦目の東京杯を勝って現役の間に連敗を止めている)を大きく更新して最多、通算41戦はダービー馬としてはハクチカラの49戦に次ぐ史上2番目(日本国内に限れば最多)の出走数であった。佐藤はダービー以降の成績について、「騎手から調教師と65年間、明けても暮れても馬と暮らしてきた僕にとっても、いまだに謎である」と語った一方、「あまり体質が丈夫でなかったのも事実で、ダービーが頂点で最高の能力を出して、それで全てが燃え尽きたのだと思う」との見解を示した。後年オペックホースに与えられた「史上最弱のダービー馬」との揶揄については、「仕方のないことだと思っている。全ては結果論。宿命だと諦めている」と語っている。
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