2000年以降の政治活動
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「ベンヤミン・ネタニヤフ」の記事における「2000年以降の政治活動」の解説
汚職事件から身をかわすため、ネタニヤフは政治の世界から一時身を引き、議員の職も同時に辞していたが、2000年9月27日、イスラエル最高検が、ネタニヤフ夫妻の立件を証拠不十分で断念する。 これを受けネタニヤフは、既に死に体となっていたバラク政権倒閣・復権に乗り出そうとするが、既にリクード党首の地位にあったアリエル・シャロンの方が役者が一枚上手で、翌日9月28日神殿の丘訪問でリクードの末端党員・右派陣営の心を完全に掌握してしまう。進退窮まったバラクは首相職を辞任・再選挙に打って出るが、議員の職にないネタニヤフは出馬を封じられ、選挙はシャロンの圧倒的勝利に終わる。その後、首相の椅子をつかんだシャロンとネタニヤフの関係は抜き差しならない状態となり、2002年5月にネタニヤフの傘下にあるリクード・中央委員会がパレスチナ国家反対決議を行うと、両者の溝は決定的になる。 2002年10月イスラエル労働党が政権を離脱、解散・総選挙の実施が決まり、リクード党首選が前倒しとなると、持論である「アラファト議長追放」「パレスチナ国家断固反対」を掲げ、シャロンと激突する。 2002年11月の党首選でシャロンがネタニヤフに圧勝した後、対立劇はいったん収束。2003年1月の総選挙でリクードが勝利すると、ネタニヤフは財務相に任命される。 しかし2004年2月、シャロンがガザからの全面撤退を掲げた一方的ガザ地区撤退計画を発表すると、両者の対立が再燃する。シャロンは末端党員の支持を受けた上で計画の実現を画策するが、2004年5月に行われたリクードの党員投票では20ポイントもの差をつけられ撤退計画は拒否される。ネタニヤフは当然反対の意を示し、シャロンの腹心だったリモール・リブナット教育相もこれを境にシャロンから離反してしまう。撤退計画は、シャロンとネタニヤフの権力闘争という意味合いだけではなく、党内の強硬派と穏健派の対立、党是であった大イスラエル主義(「約束の地」の範囲を元々イスラエルのものと捉える思想)の是非と言った、古い問題を顕在化させてしまったのである。党員投票で敗れたシャロンは、これを機にリクードへの不信感を募らせ、このことが翌年の集団離党・カディーマ結党へつながっていった。一方的ガザ地区撤退計画は党員投票では否決されたものの、2004年10月、労働党の支持を得て国会で何とか通過させる。その際もリクードの40人の議員の内17人が造反。党は完全に分裂状態となる。 2005年8月7日、撤退計画の最終閣議決定の直前に、ネタニヤフは「ガザをテロリストの前線基地にする愚挙」として財務相を抗議の辞任、8月30日には本格的に倒閣運動に乗り出す。しかし、これも同年11月21日にシャロンらが集団離党する形で計画は頓挫する。ネタニヤフの決断が遅すぎたことと、シャロン以上に右寄りの政策(倒閣運動の翌日には、マアレ・アドゥミームを訪問し、ユダヤ人入植地の拡大を明言している)を打ち出さなければならなかったことも、彼には不利に働いた。 財務相として、ネタニヤフはアル・アクサ・インティファーダの間にイスラエル経済回復のため大胆な計画経済を試みた。それは多数の論争の的となったが、計画はより多くの自由主義市場への動きを含んでいた。
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