2000年以降の目撃情報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:31 UTC 版)
「アノーチャ・パンジョイ」の記事における「2000年以降の目撃情報」の解説
ジェンキンスが日本に向けて出発する直前の2003年、彼は北朝鮮当局者から、もし北朝鮮に残ることを選ぶならばパンジョイと一緒に暮らすことが許されると告げられた。これはジェンキンスに彼女がまだ生きていると確信させるものであった。 ジェンキンスがテレビのインタビュー中に持っていたパンジョイの写真を示し、彼女の兄がその放送を見て写真の女性がパンジョイであることを認めた2005年まで、パンジョイの家族は彼女の状態に関する情報を何ら持ちあわせていなかった。彼女の家族は、彼女が少なくとも1989年までは生きていたと理解するや、すぐさま彼女を取り戻すべく救出活動を開始した。 2005年、パンジョイの兄は 「家族会」(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)の事務局次長である増元照明と面会した。アノーチャの兄スカム・パンジョイは、父の死後も、マカオで失踪した妹が生きていることをずっと信じていた。甥のバンジョン・パンジョイも父スカムの手紙を持参し、東京へ6度訪れている。 2006年、パンジョイの故郷に近いチエンマイでは、彼女の事件に注目してもらうための写真展を開催した。彼女の兄スカム・パンジョイは、「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会、NARKN)とワシントンD.C.拉致連絡会(Rescuing Abductees Center for Hope、ReACH)の支援を受けて、妹に向けた公開書簡を書いた。 この手紙を読んだ後、私がいなくて寂しいと思うでしょうか。あなたのニュースを見て以来、私たちの家族の誰もがすぐにあなたに会いたいと思っています。この拉致はあなたに起こるべき出来事ではなかった。誰もがあなたに会いたがっています。あなたが姿を消した後、私たちは多くの試練や苦難に直面してきました。あなたを見つけようと私たちは多くのお金も費やしてきました。父が病気になり、私はついに97歳で入院させました。しかし、その父も昨年亡くなりました。この手紙を読んで、あなたが家族全員を恋しく思うことを私は願っている。あなたの家族は、あなたが帰るのを助けたいと思っています。あなたは何も恐れる必要はありません。 2011年12月に金正日が死去した。これにより、国家間の交渉が進展するのではないかという希望的観測もかつては存在した。1977年に北朝鮮の工作員たちに対し「マグジャビ」(手当たり次第)に外国人を誘拐するよう命じた人物こそ金正日だったからである。 アノーチャ・パンジョイは北朝鮮工作員によって拉致されたのに、当の北朝鮮は彼女が自国の国内にいたことを否定している。北朝鮮はまた、日本から以外のどの国の国民の拉致も認めていないのである。
※この「2000年以降の目撃情報」の解説は、「アノーチャ・パンジョイ」の解説の一部です。
「2000年以降の目撃情報」を含む「アノーチャ・パンジョイ」の記事については、「アノーチャ・パンジョイ」の概要を参照ください。
- 2000年以降の目撃情報のページへのリンク