1995年 - 2001年(J1)
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「セレッソ大阪」の記事における「1995年 - 2001年(J1)」の解説
1995年 - Jリーグに加盟。森島寛晃がベストイレブンを獲得。 1996年 - 成績不振によりエミリオが監督を辞任。後任にコーチだった楚輪博が監督に昇格。7月3日 - ナビスコカップの福岡戦で8得点。チーム最多得点記録。 7月27日 - 大阪長居スタジアム(長居)が改修終了。それに伴いC大阪のホームスタジアムも長居第2陸上競技場から長居へ変更。こけら落しとしてブラジルのボタフォゴFRと親善試合を行った(1-3で敗戦)。 5月11日から10月2日 - リーグ戦で5か月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録。 1997年 - 監督にクルゼイロEC元監督のレヴィル・クルピが就任。カプコンが出資から撤退。 1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では34試合中13試合で3失点以上を喫した。韓国代表の黄善洪が入団。4月15日 - 長居での磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録。 8月8日 - 長居での柏戦で 5-7 の敗戦。試合当りのJリーグ最多得点記録。 1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。黄善洪が得点王とベストイレブンを獲得。 12月 - 天皇杯を前にレネが監督を辞任し、戦術面を担当していた副島博志が監督代行としてチームを指揮。 2000年 - 副島が監督に就任。韓国代表の尹晶煥が入団。1月29日 - 大阪サッカークラブ株式会社の代表取締役社長が前任の鬼武健二から藤井純一に交代。鬼武は会長に就任。 1月31日 - ドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンと3年間のアドバイザリー契約を結ぶ。3年後の2003年からは単年契約となったが2005年を最後に契約を満了。以後バイエルン・ミュンヘンは浦和と業務提携を結んだ。 3月30日 - 大阪市議会において大阪市によるC大阪への1千万円の出資が承認。 5月27日 - 西澤明訓と森島寛晃の軸を中心に西谷正也と盧廷潤のサイドアタックでリーグを席巻。あと1勝で1stステージ優勝だったが、最終節で残留争いで15位の川崎FにVゴールで敗れ、ステージ優勝を横浜FMにさらわれた。 森島と西澤がベストイレブンを獲得。シーズン終了後、西澤がリーガ・エスパニョーラのRCDエスパニョールへ移籍。 2001年 - 1stステージは16チーム中14位。7月27日 - 強化担当だった大西忠生が成績不振を理由に副社長を辞任。 8月20日 - 副島が成績不振を理由に監督を辞任(事実上の解任)。後任はジョアン・カルロスが就任。 11月3日 - FC東京戦に敗れ、J2降格が決定。カルロスが監督を辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。 天皇杯は決勝へ進出したが、清水に延長の末2-3で敗れた。なお、J2降格決定から天皇杯の決勝まで7連勝であった。
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