1959年岡崎市長選挙
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竹内の3期勇退は衆目の認めるところであった。しかし1958年(昭和33年)9月16日、太田光二県議が市長選に出馬する旨のスクープ記事が新聞に掲載されると、竹内4選のための推薦母体「愛市連盟」が結成され状況は一変する。同団体の発案者は愛知新聞社主の内田喜久と言われており、会長職には前市議会議長の小柳金蔵が就いた。東海金属工業社長の大竹庄二も竹内を支持した一人であった。市議26名から候補者の調整一本化を目指した居中調停の申し出があるも、これを斥け10月25日に正式に出馬を表明した。「前年衆院選の太田一夫君二万八千、小林錡さん一万六千、合せて四万四千票、加えて現役十二年の実績の強味」と「市長選のライバルだった千賀康治、足立一平両君の急死」が竹内をして四選出馬に向かわせたのだろうと、東海新聞社社長の榊原金之助は政情を分析した。 1959年(昭和34年)2月1日投票の愛知県知事選挙に日本社会党は元秋田県知事の磯部巌を擁立。竹内派も太田派も矛を収め、ともに現職の桑原幹根の応援に入った。一時的に呉越同舟となった同年1月のある夜、岡崎商工会議所会頭の田口宗平、岡崎陸運社長の林茂、前述の大竹庄二らは誘い合わせて竹内の自宅を訪ねた。大竹は愛市連盟の中心人物でありながら次第に太田派の林と気脈を通じるようになり、調停役を買って出た。3人が円満退陣をもちかけると、酒の入っていた竹内は大竹に「最初に4選をすすめた君が、今になって、やめよとは何事だ」と詰め寄り二人の間で激論が始まった。結局、この三者勧告も不調に終わった。 同年2月19日には倉知桂太郎県議会議長、浦野幸男県議らが市役所を訪れ、6月に行われる参院選愛知県選挙区に自民党公認候補として出馬する考えはないかと打診。竹内は翌日、「私は市政の現状予備将来に対して信ずるところがあって四度市長選に出ることを決心しているので、せっかくながら自民党県連のお申入れは受諾できない」と回答した。岡崎商工会議所会頭の田口宗平、市議会議長の安藤平一、副議長の加藤錫太郎、実業家の大竹庄二、林茂ら各界有力者5名は、4月17日付の『東海新聞』に、前年暮れから調整一本化工作を行い続けたが不調に終わった旨の声明書を発表した。 同年4月30日、岡崎を二分した市長選の投票が実施される。竹内は3,300票余りの小差で落選。 1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙。同年11月、藍綬褒章受章。1964年(昭和39年)11月、勲五等双光旭日章受章。1966年(昭和41年)12月11日、肺気腫により市内康生通西4丁目の自宅で死去。死の2か月ほど前、旧知の新聞記者が家を訪ねたとき、「俺は一生涯貧乏につきまとわれたよ」と語ったという。78歳没。
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