19世紀パリでのクラック
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「クラック (オペラ)」の記事における「19世紀パリでのクラック」の解説
そしてこのクラックがもっとも高度に組織化されたのは、19世紀初め、パリにおいてであった。1820年にはソートンなる人物によって「演劇成功請合協会」(L'assurance des succès dramatiques)なるクラックの「代理店」が開業した記録がある。 特に「グランド・オペラ」様式と称される大規模なオペラが数多く上演された1830年から1840年代にかけてのパリ・オペラ座では、仮に一作が失敗した場合の興行側の経済的損失は莫大であり、クラック組織はより大規模になると同時に、より確実な成功を期して下記のような「分業」が発達した。 tapageur(原義は騒音屋、以下同じ) ひたすら大きな音で拍手を行う役。 connaisseur(玄人) タイミングよく賛辞を送る役。 pleureur(泣き屋) 泣くべきシーンで泣く役。しばしば女性がその任に当たり、その場合は女性形pleureuseで呼ばれた。涙がうまく出ないときはハンカチで泣き真似を演じる、あるいは隠し持っていた塩などの刺激物を自分の眼に入れて涙を流すこともあったという。 bisseur(アンコール屋) アンコールを求める"bis! bis!"の声を立てる者。 chatouilleur(喜ばせ屋) 公演に退屈し出した周囲の一般客に気の利いたジョークを言ったり、菓子を配ったりして、劇場に長居をする気分にさせる役。 commissaire(手腕家) 休憩時間にその演目、あるいは演奏の素晴らしさを他の聴衆に力説して回る役。 chauffeur(暖房役) 開幕前には公演に対する期待を劇場内外で広め、終演後はその公演がいかに大成功だったかの噂を街で立てて回る役。 そしてこれら一公演で100人から300人にも及ぶクラック集団を統率するのが、俗に「隊長」(chef de claque)と呼ばれる人物であった。隊長は拍手喝采を効果的に行うためにオペラ譜面・台本の研究を重ね、舞台稽古にも同席し、支配人や歌手陣とも綿密な打合せを行い、その結果を配下の集団に指令した。上演当夜、クラック集団は一般客より先に劇場への入場が許され、各人は所定の位置に散開し、隊長は自らは目立つ服装を身にまとい、拍手喝采のタイミングを部下にはっきりとした仕草で伝えるのだった。 隊長のうちでももっとも有名だったのは、オギュスト・ルヴァスールなる人物(1844年没)であった。オペラ座支配人であったルイ・ヴェロン(在任1831年 - 1835年)に雇用されたルヴァスールは、オペラ座から無料あるいは廉価で渡されるチケットを配下のサクラや一般客に売却して金銭を得るほか、作曲者や歌手からは別途金銭の受領があり、一説には年収2万-3万フランともいう。同時期パリの一般病院の院長が年収2,400フランから5,500フラン、パリ市内に15人しかいなかった商事担当法務官の年収が3万フランというから、ルヴァスールがいかに高収入を得ていたかが窺える。
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