19世紀、バーデンへの移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/05 08:49 UTC 版)
「キルヒャルト」の記事における「19世紀、バーデンへの移行」の解説
プファルツ選帝侯の終焉後、1802年11月27日付の布告により、キルヒャルトは短期間ではあるが、新たに創設されたライニンゲン侯領に編入され、1806年からベルヴァンゲンおよびボックシャフトとともにバーデン大公国に移管された。ここでは、バーデン大公国およびライニンゲン侯領のベツィルクスアムト・ジンスハイム(後のアムツベツィルク・ジンスハイム)の管轄下に置かれた。1813年まではライニンゲンの代官所、その後はバーデン大公国の代官所、1831年からは村長が置かれた。村の裁判所の機能は、村議会に引き継がれた。1810年頃にはルネサンス様式の村役場は老朽化し、1813年に取り壊されて、同じ場所(本通りとハイルブロン通りの角)に新しい村役場が建設された。 1800年頃、キルヒャルトには約750人の住民がいたが、そのほとんどは農業に従事していた。これに対して、ベルヴァンゲンには、この時代、ほぼ同数の住民がいたが、こちらはすでに工業化されていた。1825年にはキルヒャルトの人口は1030人に達したが、中世の柵による境界線は維持されていた。このため、その狭隘さや社会問題(貧困、飢餓)が深刻な問題となった。こうして、100人以上の住民が1835年から1860年の間に、多くはアメリカへ、移民として流出した。 1868年、ハイデルベルクからハイルブロンへの鉄道(エルゼンツタール鉄道)が建設され、隣接するグロムバッハに駅が設けられた。1876年にはハイルブロンへの道路が、当時の交通事情に合わせて拡張された。1880年にハイルブロン通りに新しい学校が建設された。1885年に最初の経済発展があった。この地域で栽培したタバコを加工生産するタバコ会社のキルヒャルトへの進出である。キルヒャルトには、後にあわせて7つの工場を造られた。これにより1900年頃には、約200人の住民が賃金で生計を立てるようになっていた。1914年までには、これらのタバコ会社だけでなく、より大きな企業もいくつかこの農村に進出してきた。人口は1300人近くにまで増加した。1817年から1925年までの間に、キルヒャルトの企業数は96件から210件に増加した。 インフレーションと世界恐慌により、キルヒャルトとその周辺の村は、貧困と増加する失業者に悩まされるようになった。これ以後、キルヒャルトでは住民文化が興隆し始めた。1910年にエルゼンツ=ツルンガウ民謡祭が開催され、1920年にはスポーツ競技場がオープンした。 1933年にキルヒャルトの人口は1,300人、ベルヴァンゲンは750人、ボックシャフトは130人となった。1936年には、ジンスハイムの郡庁所在地への昇格に伴い、キルヒャルト、ベルヴァンゲン、ボックシャフトが属すアムツベツィルク・ジンスハイムはジンスハイム郡となった。
※この「19世紀、バーデンへの移行」の解説は、「キルヒャルト」の解説の一部です。
「19世紀、バーデンへの移行」を含む「キルヒャルト」の記事については、「キルヒャルト」の概要を参照ください。
- 19世紀、バーデンへの移行のページへのリンク