19世紀、バーデンの地方行政都市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:38 UTC 版)
「ジンスハイム」の記事における「19世紀、バーデンの地方行政都市」の解説
1803年にプファルツ選帝侯領が解消された後、ジンスハイムはわずかな期間であるが新しく設けられたライニンゲン侯領に属した。その後、1806年に新たに創設されたバーデン大公領に地方行政都市として編入された。ヴェツィルクスアムトの行政府は初め1712年建造の新しい市役所内で執務したが、1840年までには大公のベツィルクスアムト庁舎が設けられた。 1819年にカール・ヴィルヘルミがジンスハイムの牧師となった。1821年の改革派教会とルター派教会の合併、バーデン地方教会の創設は、これがきっかけとなった。1830年には、原始時代の埋蔵文化財を調査研究するための「Gesellschaft zur Erforschung der vaterländischen Denkmale der Vorzeit」(故郷の原始時代の文化財を研究するサークル)が結成された。 1840年9月のドイツ第8軍の演習では、9月14日から16日の司令部はジンスハイムに置かれた。この機会に多くの貴顕がジンスハイムに滞在した。その中には、バーデン大公レオポルト、ヴュルテンベルク王と皇太子、ヘッセン大公とその公子、プロイセンの王子ヴィルヘルム1世(後のドイツ皇帝)、さらにはロシア、オーストリア、デンマーク、オランダ、スイスおよび旧ドイツ領邦国家の軍高官らが含まれる。 1848年のバーデン革命の際には、ジンスハイムでも民主主義者の市民や手工業者らが蜂起した。革命指導者のカール・バウアー、エドゥアルト・シュパイザー、ミュラー・ラウは1848年4月からジンスハイムの市庁舎を占拠し、民主的な共和国の樹立を宣言した。革命指導者フリードリヒ・ヘッカーをサポートするために、250人の武装した志願部隊とともにハイデルベルクに向かった。 ヘッカー蜂起の鎮圧は、貧困を原因に始まった合衆国やその他の民主主義者を受け容れていた国への移民の波を強めることになった。合衆国では、多くのバーデン出身者がフォーティエイターズ(en:Forty-Eighters)と呼ばれ、北軍として戦っていた。ジンスハイム出身のフランツ・シーゲルは南北戦争で将軍の階級にまで上った。これとは逆向きに、1870年代には、フィロキセラをはじめとするブドウの害虫がアメリカから侵入し、16世紀から続いたジンスハイムおよびその周辺地域のブドウ栽培は数年のうちに壊滅した。多くのブドウ畑は、他の作物の畑や牧草地になった。 1863年にベツィルクスアムト・ジンスハイムは、廃止されたベツィルクスアムト・ネッカービショフスハイムの領域を容れ拡大した。1868年から1869年にはジンスハイムを経由する鉄道路線 メッケスハイム – ヤクストフェルト線が建設された。鉄道建設は経済的な向上をもたらした。バラスト軌道建設に必要となるため、採石場で多くの雇用が生まれたのである。1900年には、エウゼンツタール鉄道とクライヒガウ鉄道を縦断的に結ぶシュタインスフルト – エッピンゲン線が開通した。
※この「19世紀、バーデンの地方行政都市」の解説は、「ジンスハイム」の解説の一部です。
「19世紀、バーデンの地方行政都市」を含む「ジンスハイム」の記事については、「ジンスハイム」の概要を参照ください。
- 19世紀、バーデンの地方行政都市のページへのリンク