14、15世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 03:27 UTC 版)
現在の形になったボドリアン図書館の歴史は1602年から連綿と紡がれているが、そのルーツとなる建物はさらに時を遡る。オックスフォード大学に存在したことが知られている最初の図書館はウスターの司教であったトーマス・コバム(英語版)によって14世紀に設立された。この鎖付図書館の収蔵所はハイ・ストリートの聖母マリア大学教会(英語版)の北側に位置していた。蒐集量はゆっくりと増加していたが、1435年から1437年の間に ハンフリー・オブ・ランカスター (ヘンリー5世の弟) が大量の写本を寄贈したことで収蔵スペースが足りなくなり、より大きな建物が必要になった。収蔵に適した部屋がディヴィニティ・スクール(英語版)の上部に建設され、1488年に完成した。この部屋はハンフリー公図書館(英語版)として存続している。
※この「14、15世紀」の解説は、「ボドリアン図書館」の解説の一部です。
「14、15世紀」を含む「ボドリアン図書館」の記事については、「ボドリアン図書館」の概要を参照ください。
14-15世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 02:07 UTC 版)
コンウィ城は、14世紀初頭にはあまり保守されておらず、1321年の視察により、設備は貧弱で、蓄えは乏しく、屋根の雨漏りや腐った木材に悩まされていると報告された。コンウィは活気を失い、エドワード黒太子が1343年に城の支配権を引き継ぐまで低迷が続いた。その後1346-1347年に、城はエドワードの侍従(城代)ジョン・ウェストンにより大規模な修理を施され、城の大広間の新たな石材支持アーチならびにその他の部分が構築されたが、黒太子が没すると城は再び荒れるに任された。 14世紀末には、城はリチャード2世により、対抗するヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)の部隊からの退避所に使われた。1399年8月12日、アイルランドから戻った後、リチャードは城に向かい、そこでヘンリー・ボリングブルックの特使ヘンリー・パーシーとの交渉に会した。パーシーは礼拝堂において王に危害を加えないことを誓った。8月19日、リチャードはフリント城(英語版)でヘンリーに降伏し、自身の命が救われるなら退位するとした。王は間もなくロンドンに連れられ、その後ポンテフラクト城(英語版)に幽閉されて死去した。 ヘンリー・ボリングブルックは、1399年9月末にヘンリー4世としてイングランドの王位に就いたが、その翌1400年、オワイン・グリンドゥール(オウェン・グリンドゥル)の指導のもと、北ウェールズで反乱が発生した。1401年3月には、オワイン・グリンドゥールのいとこリス・アプ・テューダー(英語版)とその兄弟グウィリム(英語版)がコンウィ城に不意打ちを企てた。城を修繕する大工のふりをして、2人は入り込むと、当番の哨兵2人を殺して要塞を掌握した。ウェールズの蜂起勢が次いで襲撃し、防壁に囲まれた町の残りの部分を占領した。兄弟らは投降の条件がまとまる前およそ3か月間寄せ付けず、この協約の一端として2人はヘンリーより恩赦が与えられた。 1455年から1485年にかけての薔薇戦争の際には、ランカスター家とヨーク家の対立を背景に補強されながらも、実戦には使われていない。16世紀初頭の1520年代と1530年代にヘンリー8世が手を加えて以降、軍事拠点としては形骸化し、もっぱら賓客を迎える施設または倉庫、監獄として使われるようになった。
※この「14-15世紀」の解説は、「コンウィ城」の解説の一部です。
「14-15世紀」を含む「コンウィ城」の記事については、「コンウィ城」の概要を参照ください。
- 14、15世紀のページへのリンク