1417年の遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 16:13 UTC 版)
「ヘンリー5世 (イングランド王)」の記事における「1417年の遠征」の解説
イングランド国王と神聖ローマ皇帝との間につながりができたことで、1417年の教会大分裂の収束に道筋がつき、フランスと大陸諸勢力との分離が進んだ。これを好機として、アジャンクールの戦いの疲弊を癒したヘンリー5世は再び、さらに大規模な進攻作戦を開始した。 8月に始まったイングランドの征服活動でカーンなどノルマンディー地方の沿海部はまたたくまに占領され、ルーアンの町も1418年7月からパリから分断された状態で攻め立てられた。フランス政府はブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で機能していなかった。ヘンリー5世は巧みに両派を争わせつつ、9月にシェルブールを、1419年1月にルーアンを陥落させた。 抵抗したノルマンディーのフランス人は厳しく罰せられた。城壁からイングランド人捕虜の首をぶら下げたアラン・ブランシャールは瞬く間に処刑され、イングランド国王を破門したルーアンの司祭ロバート・ドゥ・リベットはイングランドに送られて5年間牢獄に入れられた。 8月、イングランド軍はパリ城外まで達した。ここに至って王太子シャルル(後のシャルル7世)とブルゴーニュ公ジャン無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を開始したが、9月10日の交渉の場で王太子の支持者が無怖公を暗殺した。そこで新ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)とブルゴーニュ派はヘンリー5世のイングランド軍と協同することにし、フランス王室も交えた6ヶ月の交渉の末1420年5月にトロワ条約が結ばれた。この条約の中で、ヘンリー5世がフランスの王位継承者・摂政となることが認められた。 そして6月2日、ヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)と結婚した。6月から7月にかけてモントロー(フランス語版)の城に押し寄せ、陥落させた。さらに11月にはムランを占領し、ルーアンに滞在した後1421年2月にイングランドへ帰国した。
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1417年の遠征
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「イングランド・フランス二重王国」の記事における「1417年の遠征」の解説
アジャンクールの勝利から2年間辛抱強く準備して、ヘンリー5世は1417年に大規模な形で戦争を再開した。低ノルマンディーはすぐに征服され、ルーアンはパリから切り離されて包囲された。フランスはブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争で麻痺していた。ヘンリー5世は両派に対して軍事的接近を怠ることなく、巧みに互いを争わせた。1419年1月にルーアンは陥落した。抵抗するノルマンディーのフランス人は厳しく弾圧された。イングランド軍捕虜を壁で絞首刑にしたアラン・ブランシャルは同じ方法で処刑された。イングランド国王を破門したルーアン律修司祭のロベール・ド・リヴェは、イングランドに連行されて5年間投獄された。この戦争中、ノルマンディーでは唯一モン・サン=ミシェルが包囲されながらも篭城戦を耐え切った。 同年8月までにイングランド軍はパリに迫った。フランス党派の謀略はモントルーにおける、王太子支持派によるジャン無怖公暗殺(1419年9月10日)で頂点に達した。新たなブルゴーニュ公フィリップ善良公はヘンリー5世と結んだ。6ヶ月に及ぶ交渉の後、ヘンリー5世をフランスの王位継承者及び摂政と認めるトロワ条約が締結され、1420年6月2日にヘンリー5世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚した。6月から7月にかけてヘンリー5世の軍勢はモントルーの城を包囲攻略し、更に11月にはムーランを落とし、その後短期間の後に再びイングランドへ帰国した。翌年にヘンリー6世が生まれている。
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