1415年の遠征
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「ヘンリー5世 (イングランド王)」の記事における「1415年の遠征」の解説
1415年8月11日にフランスに向けて出航したヘンリー5世のイングランド軍は、8月12日に北フランスに上陸し、アルフルール(英語版)(現セーヌ=マリティーム県)要塞を包囲し、9月22日にはこれを陥落した(アルフルール包囲戦(英語版))。予想以上に長引いた包囲戦で疾病・負傷者が増えたイングランド軍は、補給可能なカレー港に陸路移動を開始した。これを追撃しようとするアルマニャック派を中心とするフランス軍を10月25日のアジャンクールの戦いで撃破し、多くのフランス貴族を捕虜とした。ブルゴーニュ派からの攻撃はなくイングランド軍は11月に帰国、ロンドンで凱旋した。 アジャンクールの戦いでアルマニャック派の幹部は戦死するか捕虜となり、彼らは過酷に扱われ長期間イングランドに幽閉された。この中にオルレアン公シャルルとアルテュール・ド・リッシュモンなどがおり、ヘンリー5世が死ぬか、長い年月を経た末でなければ釈放されなかった。また、ヘンリー5世は継母(父の後妻)でリッシュモンの実母ジョーン・オブ・ナヴァールに対しても邪険に扱ったとされる。
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1415年の遠征
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「イングランド・フランス二重王国」の記事における「1415年の遠征」の解説
1415年8月11日にヘンリー5世はフランスへ渡り、アルフルール(フランス語版、英語版)の要塞を包囲して9月22日に落とした。その後、ヘンリー5世軍はフランスの辺境をカレーに向かって行軍しなければならなかった。1415年10月25日、アジャンクール村付近の平原でイングランド軍はフランス軍を迎え撃った。イングランド軍は消耗し、兵力では遥かに劣っていたにもかかわらず、ヘンリー5世は数千人を討ち取ることでフランス軍に決定的な打撃を与えた。イングランド側からの観点では、この勝利は遠征の第1段階に過ぎなかった。 「 イングランドの人々よ、聖クリスピヌスの祝日(10月25日)の輝かしい勝利における汝らのの働きと祈りを止めよ。彼らのイングランドの男達の名声への嘲りにもかかわらず、フランスの悪評は失墜した。 」 このラテン語の警句は戦争後に多くの生み出された物の一つであり、年代記などの長い口承に由来する。
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