黄金跨線橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:48 UTC 版)
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黄金跨線橋(こがねこせんきょう)は、名古屋市中川区と中村区の境界に架かる跨線橋。
概要
名古屋市道名古屋環状線と愛知県道115号津島七宝名古屋線と名古屋市道愛知名駅南線(大須通)が重複して通っている。近鉄名古屋線、JR関西本線およびこれに併設する名古屋車両区、名古屋臨海高速鉄道あおなみ線と各種引込み線をまたいでいる全長1,107mの橋梁である。この橋は、通称「黄金陸橋」(こがねりっきょう)とも呼ばれる。中村区側には黄金通(こがねどおり、かつての名称はおうごんどおり[1])という地名が存在する[2]。
歴史
- 昭和30年代、この付近は前述の国鉄関西本線、近鉄名古屋線と当時あった笹島駅に関連する引込み線が並行しているため、一日当たりの遮断時間が9時間を越える開かずの踏切と化しており[3]、その解消が求められていた。
- 1962年(昭和37年)12月 : 工事着工。
- 1966年(昭和41年)[2]3月[要出典] :現在の跨線橋が開通[2]。
- 開通後には名古屋市道名古屋環状線の重要なルートとして、多数の車両が通行するようになり、当時は中川区にはこれより西に線路と交差する主要な並行する道路が無く、慢性的な混雑がみられた。
- 1986年(昭和61年)10月27日 : 陸橋付近に名古屋高速道路5号万場線黄金出入口開設[4]。
脚注
- ^ 名古屋市役所市民経済局市民生活部広聴課企画係 (2015年7月3日). “黄金通りの呼称について(市民の声27年5月)” (日本語). 名古屋市. 2016年8月10日閲覧。
- ^ a b c 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989, p. 253.
- ^ 豊島元広, p. 1.
- ^ 名古屋高速道路公社40年史編集委員会 2012, p. 83.
参考文献
- 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会、角川書店、1989年。ISBN 4-04-001230-5。
- 『名古屋高速道路公社四十年史』名古屋高速道路公社40年史編集委員会、名古屋高速道路公社、2012年。
- 豊島元広. 黄金跨線橋について .
外部リンク
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座標: 北緯35度9分23.5秒 東経136度52分18.3秒 / 北緯35.156528度 東経136.871750度
黄金跨線橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:59 UTC 版)
「名古屋高速5号万場線」の記事における「黄金跨線橋」の解説
万場線は全路線中1箇所で進路を大きく変更するが、それが当該跨線橋区間である。愛知県道115号と笹島地域を橋渡しして、若宮大通へ連結させるうえでのアプローチ路線となる。当該区間には近鉄、関西本線、あおなみ線、JR東海名古屋工場に至る線路が集積し、そこを名古屋市道環状線の黄金陸橋が横断、さらにその上を万場線が通過するという複雑な構成となっている。 こうした状況下で全長293 mの弧を描く跨線橋を架設するには、一括送り出し工法と橋の中央部をクレーンで架設する工法を併用することとして、まず1984年(昭和59年)9月より両側から橋桁を送り出す工事を開始した。ただ、黄金陸橋の日交通量は約6万7,000台に上ることから慎重を期しての施工となり、両桁間を38 mまで接近させて1985年(昭和60年)7月に送り出し工法による建設は終了した。残り38mは黄金陸橋にクレーンを設置、桁を吊り上げて落とし込んだうえでボルトで接合する工法を採用し、最初の工事が1985年10月に施工された。なお、万場線における工事の難所は黄金跨線橋と後述の中川運河倉庫群における2箇所であるが、当該工事の進展が万場線開通時期の見通しを与え、当初1986年度とされた開通時期を1986年(昭和61年)秋に具体化させる一要因となった。
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