高兄弟の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)
正行は紀伊国で兵を起こし、摂津国の住吉・天王寺で決戦を制した。これは、実は、元弘の乱で父の正成が六波羅探題を破った時の戦闘経路とほぼ同じである。生駒孝臣は、「もしかして正行には父の足跡をたどろうという気持ちがどこかにあったのかもしれない」と推測する。そして、正行の心境は推測に過ぎないにせよ、少なくとも、正成のことを知る誰もが、正行にその姿を重ねたのは確実であろうとしている。そして、いわば正成の再来の出現を、最も肌で味わったのは幕府首脳部であったろうとする。 そもそも、細川顕氏と山名時氏は、決して弱い将ではなく、むしろその反対に、百戦錬磨の闘将であった。しかも、二人とも決して慢心していた訳ではなく、十分な兵力をもって正行との戦いに臨んでいたと思われる。それにも関わらず、二人は正行に完膚なきまでに敗北した。亀田俊和は、この点もまた幕府首脳部を震撼させたであろうとしている。顕氏は敗戦の責任で河内・和泉守護を罷免された。また、弟である細川皇海も連座して土佐守護を解任されたという説もある。 幕府の最終手段として起用されたのは、将軍尊氏の懐刀であり、麾下最強の名将である執事高師直・師泰兄弟だった。 師直は顕氏と入れ替わりで河内・和泉守護となり、幕府が中央で集められる限りの総兵力に近い大軍を結集させた。『醍醐地蔵院日記』(『房玄法印記』翌年1月1日条)によれば、第一軍の師直軍だけでおよそ一万の兵数があったという。ここに加えて、兄弟の師泰の第二軍が編成された。南朝側は12月2日にこの情報を入手した。 まず12月14日、第二軍の高師泰が先に出陣し(『師守記』『田代文書』)、総大将の高師直は遅れて25日もしくは26日に京を出陣した(『師守記』『東金堂細々要記』『建武三年以来期』)。両軍は、あらかじめ決めておいた予定通り、淀(京都府京都市伏見区西南部)・八幡に駐留し年を越した(『園太暦』『師守記』)。
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