高免の成立と江戸時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 22:26 UTC 版)
高免という地名は江戸時代より見え、大隅国大隅郡桜島郷(外城)のうちであった。高免は「向面」とも書かれた。村高は「天保郷帳」では5石余、「郡村高辻帳」では5石余、「三州御治世要覧」では24石余、「旧高旧領取調帳」では4石余であった。 安永8年(1779年)に発生した安永大噴火では高免村と古里村(現在の古里町)を結ぶ線上に火口が現れた。集落には火山弾が直撃し家々は炎上して焼失した。村民らは国分・福山・加治木・帖佐・鹿児島へ避難し、火口に近かったものの死者はなかった。なお、噴火当時の向面村の集落の位置については諸説あり、文明溶岩と安永溶岩に覆われていることから特定できていない。高免村の沖では海底が隆起し、安永9年(1778年)までに8つの島(現在の新島)が現れた。 1887年(明治20年)4月2日には「 鹿兒島縣下分郡ノ件」(明治20年勅令第7号)により大隅郡が南北に分割され、高免村は北大隅郡の所属となった。
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