香川県との軋轢
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豊島開発が摘発された後も、住民側と香川県側は事後処理や責任問題についての争いが以後7年間続いた。香川県の姿勢に不信感を強めた住民側は1993年11月11日に、産廃の撤去と住民一人当たり50万円の慰謝料を香川県と排出業者と豊島開発に求めて国の公害調停申立を行う。これに対して香川県は「産廃の量は膨大で撤去は困難である。また香川県には責任はない」という態度で臨んだ。また排出業者は、処分を依頼した業者がどう産廃を処分するかは責任外とし、当の豊島開発は撤去に応じる姿勢を示さなかった。 こうした香川県の対応に憤慨した住民は、香川県庁前で「立ちんぼ」による抗議活動を1992年12月20日から1994年5月31日まで続けた。ようやく1994年になって、公害等調整委員会は2億3600万円をかけて本格的な実地調査を行った。その結果、豊島に投棄された廃棄物は約56万トンと推定され、7つの処理案が提示された。費用は処理案によって違うが、61億円から191億円が必要とされ、年月も2年から10年かかるとされた。 1996年6月、公害等調整委員会は「香川県の誤った監督指導体制が、事態をここまで悪化させた要因である」と指摘し、香川県の責任を認めるとともに自治体として踏み込んだ対応をするように求めた。こうして香川県の姿勢が変わったのは1997年1月になってからである。その背景には、処理費用に対して当時の内閣総理大臣橋本龍太郎がその半額を国から援助するという判断があったからだとされる。これにより費用負担を拒否してきた香川県は、ようやく残り半分の処理費用を負担する判断を下す。 1997年4月には「住民が長期にわたり、不安と苦痛を受けた」という文章を盛り込んだ中間合意案が公害等調整委員会によって作成されたが、香川県が「不安と苦痛」という部分に難色を示し削除を求めたため、1か月後に公開された文章では該当部分が削除された。それを知った豊島の住民は改めて香川県の対応に落胆することになる。この中間合意案では、県が責任を認めやすいように、住民側が県に対する賠償を放棄した背景があった。香川県はこの合意案を受諾する方針を表明したが、住民側は「県の責任が明確にされていない」などとして合意案の変更を公害等調整委員会に迫ったが、委員会が応じることは無かった。このため住民側は、期限切れで中間合意をまとめることが不可能になることを恐れ、この合意案を不本意ながら受け入れ、香川県の責任については別の運動で追及していく方針とした。中間合意後も香川県は住民への謝罪を拒み、謝罪を求める住民との間で調停は再び膠着状態となった。 1998年9月、前川忠夫に続いて知事に就任していた平井城一が退き、真鍋武紀が知事に就任した。真鍋は当選前から、県の謝罪表明には「検討の上で対応する」と慎重な姿勢をとっていた。当選後の1998年10月の代表質問でも「中間合意で香川県は既に遺憾の意を表明している」と述べて、既に謝罪済みで解決しているという見解を表明した。 1999年12月12日、総理府で行われた1年半ぶりの調停では、真鍋知事は改めて住民らの謝罪要求には応じないと回答し、産廃処理に必要な工事の着手には、公害等調整委員会の最終的な合意が不可欠であり、最終合意なしに工事には着手しない考えを表明した(技術委員会は、現場での海洋汚染の可能性もあり、一刻も早い工事着手を県に求めていた)。 2000年、香川県の担当職員の処分が行われ、真鍋知事が豊島を訪れ住民に謝罪した。開催された調停の回数は2000年までに37回を数えた。
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