風摩から風魔へ
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(1940-50年代) 1948年の伊賀竜之助『猿飛佐助』では、後北条氏に仕える敵役の武将、風摩小太郎正重・小次郎高重の兄弟が、「風摩の術」を使い、武田勝頼に仕える主人公の猿飛佐助と戦う。 1949年の中澤巠夫の児童向け小説『富士の風魔』では、足柄山麓の村で暮らす風間一族の子で主人公の風間小源太が、山地一帯を根拠地とする同族の風魔一党に拐われた「あけみちゃん」を取り戻そうとする。 小源太は、家へはいると、そっと納戸から刀をとりだして来て、裏の井戸ばたで、ごしごしと、とぎはじめた。(・・・)「小源太や。なにをしているの、あぶないよ。」やさしい声がした。おかあさんが、畑から、もいで来たあきなすびをかごにいれて、うしろに立っていた。「おかあさん・・・・・・。おいらの家はぬすびとじゃないね。」 小源太は、きゅうにかなしくなって、おかあさんの胸に、とびついてなきだした。「おとうさまは野武士でしたが、けっしてぬすみはしませんでしたよ。」 おかあさんは、きっぱりといった。 —風間小源太とおかあさん、中澤巠夫『富士の風魔』より 1952年の海音寺潮五郎の『週刊読売』連載小説『風魔一族』では、後北条氏滅亡の9年後(関ヶ原の戦いの少し前)、小田原の船原で暮らしていた風魔小太郎は、石田三成から上杉氏と連携して関東を攪乱するよう依頼された息子の風魔小次郎と島左近の家来・高坂甚内に説得され、上杉討伐のため江戸へ向かった徳川家康を暗殺しようとするが、未遂に終わる。飛沢甚内・庄司甚内も江戸へ上り、庄司は吉原を開く。 中沢や海音寺は、「実録文学」を志して戦前から三田村鳶魚の講話を聞く「満月会」に参加し、戦後も毎月「矢立会」を開いて三田村の話を聞き、また経済面でも援助するなど、三田村と交流の深い作家だった。 後年、中沢が著した考証もの「江戸を震撼させた風魔一党」によると、中沢は、それまでの創作で用いられていた「風摩」表記は『改定史籍集覧』の『北条五代記』 にみえるが、『古事類苑』にある同書からの引用文 は「風魔」表記になっていることに気付き、「風魔という文字の方が、いかにも、乱波ものを象徴しているようだから」「風魔」表記を採用したという。「風魔」表記は海音寺の作品でも用いられている。 1954年 - 1955年に『東京タイムス』などの新聞に連載された南条三郎の小説『美女決闘』では、関東に入国した徳川家康により討伐された武蔵野の群盗「乱発(らっぱ)」の首領・風魔小太郎の36人の娘達が、武蔵国と相模国の境目辺り(横浜市港北区、長津田から大和市辺り)にある「風魔の森」に集まり、父の仇である裏切り者や家康の殺害と男子禁制を誓う。『美女決闘』は1955年8月に新東宝の配給で映画化され(監督:冬島泰三)、関係者の間で風魔小太郎のことが「興味的に論議」されたという。
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