風摩から風魔へとは? わかりやすく解説

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風摩から風魔へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 02:02 UTC 版)

風魔小太郎」の記事における「風摩から風魔へ」の解説

(1940-50年代) 1948年伊賀竜之助猿飛佐助』では、後北条氏仕え敵役武将風摩小太郎正重小次郎高重の兄弟が、「風摩の術」を使い武田勝頼仕え主人公猿飛佐助と戦う。 1949年中澤巠夫児童向け小説富士風魔』では、足柄山麓ので暮らす風間一族の子主人公風間小源太が、山地一帯根拠地とする同族風魔一党に拐われた「あけみちゃん」を取り戻そうとする。 小源太は、家へはいると、そっと納戸から刀をとりだして来て、裏の井戸ばたで、ごしごしと、とぎはじめた(・・・)小源太や。なにをしているの、あぶないよ。」やさしい声がした。おかあさんが、畑から、もいで来たあきなすびをかごにいれて、うしろに立っていた。「おかあさん・・・・・・。おいらの家はぬすびとじゃないね。」 小源太は、きゅうにかなしくなって、おかあさんの胸に、とびついてなきだした。「おとうさま野武士でしたが、けっしてぬすみはしませんでしたよ。」 おかあさんは、きっぱりといった。 —風間小源太おかあさん中澤巠夫富士風魔』より 1952年海音寺潮五郎の『週刊読売連載小説風魔一族』では、後北条氏滅亡9年後(関ヶ原の戦いの少し前)、小田原船原暮らしていた風魔小太郎は、石田三成から上杉氏連携して関東攪乱するよう依頼され息子風魔小次郎島左近家来高坂甚内説得され上杉討伐のため江戸へ向かった徳川家康暗殺しようとするが、未遂に終わる。飛沢甚内庄司甚内江戸へ上り庄司吉原を開く。 中沢海音寺は、「実録文学」を志して戦前から三田村鳶魚講話聞く満月会」に参加し戦後毎月矢立会」を開いて三田村の話を聞き、また経済面でも援助するなど、三田村交流の深い作家だった。 後年中沢著した考証もの江戸震撼させた風魔一党」によると、中沢は、それまで創作用いられていた「風摩」表記は『改定史籍集覧』の『北条五代記にみえるが、『古事類苑』にある同書からの引用文 は「風魔表記になっていることに気付き、「風魔という文字の方が、いかにも乱波ものを象徴しているようだから」「風魔表記採用したという。「風魔表記海音寺作品でも用いられている。 1954年 - 1955年に『東京タイムス』などの新聞連載され南条三郎小説美女決闘』では、関東入国した徳川家康により討伐された武蔵野群盗乱発(らっぱ)」の首領風魔小太郎36人の娘達が、武蔵国相模国境目辺り横浜市港北区長津田から大和市辺り)にある「風魔」に集まり父の仇である裏切り者家康殺害男子禁制を誓う。『美女決闘』は1955年8月新東宝配給映画化され監督冬島泰三)、関係者の間で風魔小太郎のことが「興味的に論議」されたという。

※この「風摩から風魔へ」の解説は、「風魔小太郎」の解説の一部です。
「風摩から風魔へ」を含む「風魔小太郎」の記事については、「風魔小太郎」の概要を参照ください。

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