音楽家への道と民謡との出会いとは? わかりやすく解説

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音楽家への道と民謡との出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 13:37 UTC 版)

バルトーク・ベーラ」の記事における「音楽家への道と民謡との出会い」の解説

学内でもピアニストオルガニストとして活動しヨハネス・ブラームス影響受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院入学許可される。しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリー作曲家としての自分意識すべきだというドホナーニ薦め従い翌年ブダペシュト王立音楽院(後のリスト音楽院)に入学作曲ハンス・ケスラーピアノをトマーン・イシュトヴァーンに指導を受ける。ここではワグネリアン学長からリヒャルト・ワーグナー洗礼を受けるが、既にブラームス影響脱して先に進もうとしていた彼にワーグナー答えをくれなかったと回想している。 1902年21歳時にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩コシュート》を作曲1848年ハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政支配下にあったブダペシュト世論騒がせた1904年にはゲルリーツェプスタ(現在スロヴァキア領)で初めトランシルヴァニア出身者の歌うマジャル民謡触れる。 1905年パリルビンシュタイン音楽コンクールピアノ部門作曲部門出場作曲部門では入賞せず奨励賞の第2席、ピアノ部門では2位であった優勝者ヴィルヘルム・バックハウス)。自分人生ピアニストとして描いていたため、優勝果たせずかなり落胆したようであるが、それ以上作曲部門での結果の方がショックだったようである。しかし、ハンガリーでは知られていなかったクロード・ドビュッシー音楽を知るという収穫得た。また民謡について科学的アプローチ始めていたコダーイ・ゾルターン出会い多大な影響を受ける。 1906年からコダーイその他の研究者達と共にハンガリー各地農民音楽採集始める。1913年アルジェリア赴いた他は、専ら当時ハンガリー国内民族音楽採集していた。 1907年26歳ブダペシュト音楽院ピアノ教授となる。ピアニストとして各地旅するではなくハンガリーに留まったことで、更なる民謡採集進み民謡編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスリヒャルト・シュトラウスさらにはドビュッシー影響感じさせるのであるが、ピアノ小品親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエル贈ったヴァイオリン協奏曲第1番ゲイエル死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集影響表れている。1908年弦楽四重奏曲第1番にも民謡要素含まれている。またトマーン紹介知己得ていたレオポルド・ゴドフスキーバルトーク作品評価したフェルッチョ・ブゾーニ推挙得てピアニストとしてだけではなく作曲家としての名も次第浸透し始める。

※この「音楽家への道と民謡との出会い」の解説は、「バルトーク・ベーラ」の解説の一部です。
「音楽家への道と民謡との出会い」を含む「バルトーク・ベーラ」の記事については、「バルトーク・ベーラ」の概要を参照ください。

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