音楽家への転身を決意
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「ヨーゼフ・シュトラウス」の記事における「音楽家への転身を決意」の解説
9月中旬には兄ヨハン2世がウィーンに戻ってきたため、眼病と頭痛に悩まされていたヨーゼフはただちに臨時指揮者を退いたが、翌1854年6月初旬にヨハン2世は再び体調を崩して静養に出掛けた。そのため、またもやヨーゼフが兄の代理としてシュトラウス楽団の指揮やいくつかの作曲を手掛けることになった。 この頃のヨーゼフは自分の将来について悩み、恋人のカロリーネに「私はどうしたらいいのか困っています」という手紙を送っている。やがてヨーゼフは不本意ながらも音楽家となる決意を固め、1854年7月にワルツ『最後の後の最初』(作品12)を発表した。それまでの作品は『最初で最後』のように兄の代理としてやむなく作曲したものであったが、このワルツでヨーゼフは音楽の世界に留まり続けることを表明したのである。この年、正式に技師を辞めた。 音楽家に転身することを決意したヨーゼフは、音楽理論と作曲法とヴァイオリン演奏を徹底的に学び始めた。ヴァイオリンの師は兄と同じく、父の楽団で第一奏者だったフランツ・アモンであった。1857年3月16日、2年間の正規の音楽教育を修了し、和声学の教授フランツ・ドレシャルから次のような免状を与えられた。 「 本日行われた通奏低音と作曲の原理についての試験を、最優秀な成績で合格した。彼の音楽の実地での最大の能力を保証する。 」 この時期の作品としては、現在でもよく演奏されるポルカ・フランセーズ『小さな水車』(作品57)や、発表後たちまちウィーンの小唄に変えられて大流行したというワルツ『調子のいい男』(作品62)などがある。なお、1858年6月15日には『理想』というワルツを初演して新聞に「傑作」と称えられたが、この曲は原稿が紛失してしまったために出版できず、現在は残っていない。
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