電車・気動車・車掌車への拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 08:53 UTC 版)
「列車便所」の記事における「電車・気動車・車掌車への拡大」の解説
電車への便所設置の最初は、1911年(明治44年)の南海鉄道(現:南海電気鉄道)の電附1形からで、当時日本最長の電車運転(難波-和歌山、約60㎞)を行っていた南海鉄道では所要時間が2時間ほどかかるため、増備車の電3形(電動車)にこの電附1形(制御付随車)を連結して運行を行っていた。 国鉄では、便所付き電車は1923年(大正12年)年に完成したサハ43550形で、本来は東京 - 熱海の100㎞以上の区間を走ることを想定しておりセミクロスシートの車両だったが、同年の関東大震災による東京近郊の被災車両の穴埋めに電動車デハ43200形などと共に回され、2等車を除き3扉ロングシートに改造、製造済みの車両の便所も全く使用されずすぐに撤去された。その後、比較的長距離を走る横須賀線の32系電車サロハ46・サハ48形に便所が取り付けられたのが、1935年(昭和10年)になってからである。 気動車への便所設置は、中国鉄道(現在のJR津山線)のガソリン動車であるキハニ120形・130形が最初で、1932年のことである。 貫通制動のない時代の貨物列車に連結された緩急車には便所が設置されず、初期の貫通制動である真空ブレーキが普及し出した時代も同様であった。貫通制動の普及した1926年に2軸客車から改造製作されたヨフ6000形(後のヨ1形)およびヨフ7000形(後のヨ1500形)では、種車に設置されていた便所はそのまま残されたが、初の鋼製車掌車となるヨ2000形(1937年製造)では便所の設置は見送られ、合造緩急車も同様であった。ようやく便所付の車掌車が登場したのは、旅客車両から遙かに下った太平洋戦争後である。1951年から新製・改造で増備された急行小口貨物列車用のボギー有蓋車ワキ1000形の車掌室付き型ワムフ100形が最初であったが少数例で、その後は1960年代に高速貨物列車用ボギー貨車でユニット構造の車掌室が設置された際に便所付となり、2軸車掌車に便所が本格的に普及したのは、国鉄最後の新製車掌車であるヨ8000形(1974年-1979年製造)であった。
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