電源の拡充
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:46 UTC 版)
上記の周辺事業者統合に加え、第一次世界大戦を背景とする大戦景気の影響により広島電灯では電灯・電力ともに供給成績が著しく向上した。電灯点灯数については芸備電気・尾道電気を合併した1916年度下期に10万灯を超え、1919年度下期に20万灯も突破、1921年(大正10年)3月末時点では23万738灯を数えた。電力供給も1914年上期に1,000馬力まで到達したのち、1916年下期に2,000馬力、1918年下期に4,000馬力を突破、1921年3月末時点では5,516馬力(約4,413キロワット)を供給した。電灯需要増加は所得向上に起因する新規需要家の増加、電力需要増加は工場電化の進展によるものである。 こうした需要増加により、1916年に入ると出力2,100キロワットの亀山水力発電所だけでは供給力が逼迫するようになる。休止していた大手町火力発電所を再開したものの、新規需要の一部謝絶せざるを得なくなった。そのような中、1917年2月に芸備電気を合併したことで、同社が豊田郡大河村大字中河内(現・東広島市河内町中河内)において沼田川水系椋梨川に建設中であった椋梨川発電所を引き継ぐことができた。椋梨川発電所は1918年5月、出力1,000キロワットの発電所として完成し、20日より運転を開始した。 芸備電気の合併に続き、広島電灯では1917年4月に太田川ならびにその支流柴木川にて水利権を申請。翌1918年2月には、水力発電所建設資金調達のため346万円の増資を実施し資本金を600万円としている。しかし水利権許可には時間がかかり、その一方で需要増加の勢いは衰えず椋梨川発電所完成後も供給力が不足する状況であったため、大戦による石炭価格高騰という不利がありながらも火力発電所の新設に踏み切ることとなった。新発電所は市内の千田町にて1919年(大正8年)8月着工。工事は3,000キロワット発電機1台ごとに2期に分けられ、第1期工事分は翌1920年10月に完成した。この千田町発電所は蒸気機関ではなく蒸気タービンを原動機とする高効率の火力発電所であり、かつ完成時には石炭価格が下落していたため、火力発電の重点化が会社経営に悪影響を与えることはなかった。 自社で完成させた亀山・椋梨川・大手町・千田町の4発電所に加え、広島電灯は周辺事業者統合で引き継いだ発電所も運転した。旧中国電気が賀茂郡阿賀町に構えた阿賀発電所(ガス力・出力75キロワット)、旧芸備電気が賀茂郡竹原町に構えた竹原発電所(火力・出力150キロワット)、旧三原電灯が御調郡三原町に構えた見原発電所(ガス力・出力180キロワット)、旧尾道電気が尾道市尾崎町に構えた尾道発電所(火力・出力255キロワット)の4か所が該当する。ただし三原発電所は1918年5月に、阿賀発電所は同年12月にそれぞれ撤去されている。従って広島電気発足直前の発電力は発電所数6か所・合計7,505キロワットであった。
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