電気分解による生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/27 01:48 UTC 版)
「アルミニウムの歴史」の記事における「電気分解による生産」の解説
アルミニウムがはじめて電気分解で生成されたのは1854年、ドビーユとドイツの化学者ロベルト・ヴィルヘルム・ブンゼンがそれぞれ独自に行ったときだった。しかし、当時は電力供給の効率が低く、すぐにはアルミニウムの工業生産に使用されなかった。1870年にベルギーの工学者ゼノブ・テオフィル・グラムがダイナモを発明、1889年にロシアの工学者ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキーが三相交流を発明してようやく変わり始めた。 アルミニウムの最初の工業(大規模)生産法は1886年にフランスの工学者ポール・エルーとアメリカの工学者チャールズ・マーティン・ホールが開発したホール・エルー法である。純アルミナの電気分解はアルミナの融点が極めて高いこと(2,072 ℃)もあって現実的ではなかったが、エルーとホールは融解した氷晶石(融点1,102 ℃)でアルミナの融点を大きく下げられることを発見した。エルーはアルミニウムの需要がまだ低かったことと、サランドルの製錬所が製造工程の改善を目指していなかったことにより、長らく自身の発明への需要を見出せないでいたが、彼は1888年に友人とともにアルミニウム工業株式会社(Aluminium Industrie Aktien Gesellschaft)を設立、同年にノイハウゼン・アム・ラインファル(英語版)でアルミニウム青銅の工業生産を開始した。このときは操業が1年間しか続かなかったが、同時期にパリでフランス電気冶金会社(Société électrométallurgique française)が設立された。この会社はエルーの特許を買い上げ、彼をイゼール県にある製錬所の所長に任命した。この製錬所ははじめアルミニウム青銅を大規模に生産、続いて数か月後に純アルミニウムを生産するようになった。 一方、ホールも同じ生産法でオハイオ州オーバーリン(英語版)にある自宅でアルミニウムを生産し、ロックポートの製錬所でも生産法のテストに成功した。続いて大規模生産に発展しようとしたが、既存の製錬所は生産法を劇的に変える必要があり、また大量生産がアルミニウム価格の下落を招くため、ホールの生産法を使用したくなかった。会社の総裁はホールの技術が同業他社に使われないよう、ホールの特許の買い上げを検討したほどだった。結局ホールは1888年に自分でピッツバーグ還元会社を設立、アルミニウムの大量生産を開始した。その後、生産技術はさらに進歩、新しい工場が建設された。 ホール・エルー法がアルミナをアルミニウムに変える手法である一方、オーストリア=ハンガリー帝国の化学者カール・ヨーゼフ・バイヤー(英語版)は1889年にバイヤー法というボーキサイト(鉄礬土)をアルミナに純化する手法を発見した。彼はボーキサイトをアルカリとともに焼成して成分を水に溶出させ、溶液を攪拌して種晶(英語版)を入れると、沈殿物が現れることを発見した。この沈殿物とは水酸化アルミニウムであり、加熱するとアルミナに分解される。その数年後には、アルミナを分離した後のアルカリ廃液が、ボーキサイトからアルミニウム成分を溶出させるために再利用できることが発見され、バイヤー法が工業で使用されるきっかけとなった。 現代の金属アルミニウム生産はバイヤー法とホール・エルー法に基づく手法を使用している。1920年にはスウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・セーデルベリ(Carl Wilhelm Söderberg)率いる研究チームがホール・エルー法を改良した。それまでの電池の陽極は石炭塊を焼成したもので製造されていたが、すぐに劣化して交換しなければならなかった。セーデルベリはコークスとタールのペーストによって再利用可能な電極を作製し、特別な還元室に備え付けた。この改良によりアルミニウムの産出量は大きく上昇した。ほかにも1929年に日本でアルマイト処理が発明され、1936年には超々ジュラルミンという合金が開発された。
※この「電気分解による生産」の解説は、「アルミニウムの歴史」の解説の一部です。
「電気分解による生産」を含む「アルミニウムの歴史」の記事については、「アルミニウムの歴史」の概要を参照ください。
- 電気分解による生産のページへのリンク