関西相互銀行の発足とは? わかりやすく解説

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関西相互銀行の発足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 05:40 UTC 版)

関西アーバン銀行」の記事における「関西相互銀行の発足」の解説

1922年7月1日京都府相楽郡木津町山城無尽株式会社として設立され1944年3月京都市下京区本店移転戦後1951年10月には相互銀行法施行に伴い関西相互銀行商号変更し1957年1月には大阪市本店移転した関西相銀住友銀行親密先として山城無尽時代除き歴代トップ同行からむかえていた。 1978年住友銀は関西地区での優位性確保狙い関西相銀合併申し入れた当時銀行支店新設大蔵省によって厳しく規制されていたため、50店を超える関西相銀店舗ネットワーク住友銀にとって垂涎の的であった。ところが、関西相銀内部において合併対す根回し終わらないうちに、同年7月日本経済新聞など3紙が合併計画報道した。この報道伝えられるや、関西相銀従業員取引先から都銀吸収されしまえば中小企業向け金融担いきれないなどの声が噴出し合併反対気勢上げた。この事態から同年9月下旬、両行は合併断念表明した合併破談したものの、その後関西相銀住友銀の友好関係堅持され、社長派遣継続された。1989年2月1日には普銀転換遂げ関西銀行商号変更した。 バブル景気時代経てバブル崩壊直面する関西地区金融火薬庫などと呼ばれ多く金融機関経営破綻追い込まれた。関西銀も融資先不動産ノンバンク関連比重高く資産傷みはやはり大きかった。その渦中関西銀が1998年3月時点における資産内容自己査定行ったところ、不良債権厳格に処理すれば債務超過に陥りかねないとの報告小松健一社長のもとに届いた報告受けた小松は、不良債権重圧から早く脱しなければ金融ビッグバンにおける対応もままならなくなってしまうとして、古巣である住友銀の同期入行頭取務めていた西川善文連絡取り支援要請した西川小松要請快諾し1998年10月30日関西銀は1999年1月住友グループ引受先とする540億円の第三者割当増資実施する発表した翌年1月資本増強策の実施によって関西銀における住友グループ出資比率は82.1%となり、実質的な住友の子会社とされた。またこれを機に小松社長会長退き後継には住友常務であった伊藤忠彦就いた同年6月から頭取呼称変更)。 2001年4月親会社であった住友銀はさくら銀行合併し三井住友銀行SMBC)と衣替えしたため関西銀は同行の子会社となった

※この「関西相互銀行の発足」の解説は、「関西アーバン銀行」の解説の一部です。
「関西相互銀行の発足」を含む「関西アーバン銀行」の記事については、「関西アーバン銀行」の概要を参照ください。

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