普銀転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 05:37 UTC 版)
続いて社長となった潮田隆は当該項にもある通り、やはり拓銀出身の役員だった。拓銀在籍中、潮田は「個人融資取引を進めるべきだ」という持論を主張したが、バブル景気の中で不動産開発やカブトデコムなどといった企業への融資拡大を図っていた拓銀首脳陣(これが後に拓銀を経営破綻に追い込むことになる)と意見や主張が真っ向から対立し、この結果、潮田は道相銀へと放逐されたのである。拓銀から潮田が更迭されたことが、道相銀を大きく救うこととなる。 道相銀は潮田の持論だった「個人融資取引」で各種ローンのノウハウを生かし、1987年に50万円以内の融資なら50分以内で回答する「スピードローン50」を新設。1986年から1988年の約2年間で20億円強だったローン残高が20倍に膨らんだ。1989年2月1日に銀行法の改正に則り、普銀への転換を果たし、道相銀から札幌銀行へと名称を変更した。また、この時点で潮田社長から潮田頭取へと肩書きが変わった。個人向けローンで有名な金融機関になり、当時は消費者ローンのパイオニアとして業界を引っ張るようになった。拓銀や道銀などの上位行とは違い、中小零細企業向け融資・個人向けローンの強みで差別化を図り、生き残りをかけた。 1990年にはディーシーカードと共同で札幌カードを設立している。 バブル崩壊後、不況が長期化した北海道では、拓銀が1997年11月17日に経営破綻した。当時の大蔵省からの打診を受け、札幌銀行は拓銀の受け皿金融機関として名乗りを上げた。しかし、前述の事情から潮田頭取の復讐を恐れた拓銀首脳が札幌銀行への営業譲渡を拒否し、最終的には北洋銀行に営業譲渡した。潮田頭取は1994年にいったん頭取退任し会長に退いたものの、後継で初のプロパーとなった川西徹頭取の死去に伴い会長兼頭取となり、吉野次郎に頭取職を譲った1998年に再度会長専任を経て、2000年より2007年6月26日まで札幌銀行の相談役を務め、2011年6月19日に死去した。
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