関西移住以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 09:01 UTC 版)
東雄は各地で尊王論を遊説していたが、1845年(弘化2年)に一旦上洛し妙法院宮の家人となった後、和泉国大鳥郡(現在の堺市)に滞在し歌学を講じた。同年、さらに大阪北久宝寺に移り、坐摩神社の神官を務め、坐摩版と呼ばれる国学書の出版を行うとともに、惟神舎を開き国学・皇学を指導した。また江戸の渡辺崋山邸で出会った和歌山池上村庄屋の南繁信と友好を深め、南家に滞在しつつ尊王思想の普及に努めた。当時、東雄が生活した茶室が現在も保存されている。 1854年(安政元年)、再度京都に移り、神祇伯白川資訓に白家神道を学び、神祗道学師の称号を受ける。妙法院宮に召されて中奥席格となり、皇学教授に任じられた。1857年(安政4年)、妻輝子が死去。この頃、静馬あるいは健雄との通称を名乗り、薑園と号した。 その後、大阪に移り住み、1860年(万延元年)、桜田門外の変に参加した水戸浪士たちの支援を行うが、大阪に逃亡してきた高橋多一郎とその子庄左エ門をかくまった科により、3月23日に同志一同とともに捕縛され、松屋町の牢獄に繋がれる。4月上旬には江戸伝馬町の牢獄に移送され、6月27日、獄中にて病死。享年50。後世、東雄は「吾徳川の粟を食わず」と宣言して断食し、命を絶ったという説が流れた。
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