鉄衛団とタタレスク
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「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「鉄衛団とタタレスク」の解説
タタレスクは、鉄衛団と対峙する中で彼らへの圧力を和らげることを選び、引き換えにルーマニア共産党の活動の抑圧や、ルーマニア共産党のフロント企業(ソヴィエト連邦友の会(英語版)が代表的)の活動の非合法化に集中した。 1936年4月、彼と内務大臣イオン・インクレツ(ルーマニア語版)はトゥルグ・ムレシュで開かれた青年集会を、ファシストの集会であると知りながら許可した。彼らは使節を集会に派遣し、特別に用意させた電車でトゥルグ・ムレシュへ移動した。この道中で、シナヤ駅(駅:英語版)のイオン・ドゥカを称えた記念碑を破壊している。トゥルグ・ムレシュに着くと、彼らは大衆の反セム主義感情をかき立てた。同年の6月に発生した死の部隊によるミハイ・ステレスク(英語版)の殺害も、ここで命令されたものだと考えられている。 1937年2月に、鉄衛団員であった学生が、ヤシ大学(英語版)の学長トライアン・ブラトゥ(英語版)に対して暴行する事件が発生。これは、スペイン内戦で斃れた鉄衛団副党首イオン・モツァ(ルーマニア語版)、鉄衛団員ヴァシレ・マリン(ルーマニア語版)両者の葬儀(英語版)から始まった、鉄衛団による大衆的キャンペーンに影響されたものである。この事件を受けて、タタレスクは首相命令によって国中の大学を全て閉鎖させた。 同年末、鉄衛団からのタタレスクの圧倒的な支持の下、国王カロル2世と首相タタレスクの連携は、民主主義野党の中心であった民族農民党(英語版)やブラティアヌ派国民自由党(英語版)との選挙協定に繋がった(偶然にも、非合法化されていたルーマニア共産党が民族農民党の支援に回ることが協定以前に決定されていたため、ルーマニア共産党もこの合意に参加することとなった)。またこの協定では、カロル2世によるあらゆる手段での選挙への介入は阻止されることとなった。彼のこの協定政策は、国民自由党内の敵対者の怒りを増長させたため、彼はファシズム派政党のルーマニア戦線(英語版)やドイツ人党(英語版)との連携協定を締結した。 1937年12月に実施された選挙(英語版)は異例の結果となった。国民自由党やタタレスクらは、約36%の得票率を得て第一党となったが、得票差ボーナスの恩恵を受けることは出来なかった(40%の得票が必要)。一方で、極右政党は大きく躍進(「全てを祖国へ」の名前で参加した鉄衛団は、15.6%の得票を得て第3位の政党となった)。これにより、カロル2世は鉄衛団内閣の成立という危機に直面し、もしこの内閣が実現すれば、彼の方針が妨害されてしまうことは確実であった。そこで彼は、オクタヴィアン・ゴガ(ルーマニア語版)率いるキリスト教民族党(英語版)へ組閣を依頼、同年12月28日にゴガによって新内閣が成立した。 結果として、タタレスクは第一秘書の職にこそ残れたものの党内での居場所を失くした。ゲオルゲ・ブラティアヌの優位を許し、1938年1月には、ブラティアヌを国民自由党副党首に選ばせることとなった。しかし1938年5月30日、ゴガによる敵対政党の抑圧策が失敗したのをきっかけに、タタレスクに支援されたカロル2世は全政党の解体を強行、民族再生戦線(英語版)のみを新たに結成したのであった。
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