野洲・栗太・甲賀郡庄屋会議
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「近江天保一揆」の記事における「野洲・栗太・甲賀郡庄屋会議」の解説
野洲郡の動き 見分開始以来の接待・贈賄の強要、雄藩への諂い、田養水地や荒野開発等の無理難題、そして5尺8寸棹を一間とした手続きに本田石高を変更させようとする違法な検分(検地)が行われ続けた。この様な幕府による違法な行為に対し、土川平兵衛と甲賀郡市原村(現甲賀市甲南町)庄屋田島治兵衛・杣中村(現同市水口町)庄屋黄瀬文吉とが密に相談し、見分繰り延べを求めるため四方の同士を糾合することに決した。 市野一行が伊庭村周辺に入った8月6日(9月10日)、土川平兵衛より上永原村の野依又右衛門に対して『三上村周辺の村では意見が統一した。上永原村等野洲郡北郡17ヶ村でも早急に打ち合わせを行われたい。名目は以前からの申し出の通り、諸物価は下がったが鰊肥値段が高騰続けているので、その対策のためとして欲しい。参会費は36文、弁当は各自持参とする。このことは戸田村(現守山市)を取締役とする53ヶ村が開いた打ち合わせにおいても同じである。53ヶ村の打ち合わせで野洲郡北郡の内容を報告するので、急ぎ開いて欲しい。召集の連絡は大篠原村の庄屋が良いと思う』との文が出され、野依又右衛門は直ぐに大篠原村庄屋小沢甚七へ依頼して17ヶ村に召集状を出状した。8月12日(9月16日)、既に打ち合わせ済の野洲川下流域戸田村を中心とする53ヶ村・野洲川上流域三上村・野洲村・小篠原村を中心とする打ち合わせに続き、大篠原村を中心とする17ヶ村の打ち合わせが大篠原村浄土宗東方山浄勝寺で開かれ、入町村(現野洲市)他15ヶ村(長嶋村・高木村・小南村・仁保村・江頭村・小田村・野田村・富波新町・富波沢村・五ノ里村・紺屋町村・永原村・上永原村・小堤村・大篠原村)が集まり庄屋会議が開かれた。 9月17日(10月20日)野洲郡桜生村(現野洲市)浄土宗桜生山宝樹寺において、大篠原村・入町村による打ち合わせに集まった16ヶ村と三上村他5ヶ村(行合村・小篠原村・野洲村・南桜村・北桜村)が加わり、22ヶ村の庄屋による合議が行われた。召集は16日に回状が出され、両グループの間ですり合せが行われたと伝えられている。これら打ち合わせの他に、他の村の集まりや野洲郡ばかりでなく甲賀郡や栗太郡でも数回に亘り打ち合わせが行われたものと思われる。 9月26日(10月29日)野洲郡戸田村(現守山市)の浄土真宗富田山立光寺において野洲郡・栗太郡合同による庄屋会議が開かれた。既に検地が終わった仁保川筋を除く地域より60余ヶ村の庄屋が集まり、戸田村鵜飼彦四郎・今浜村今川直右衛門・播磨田村西村甚右衛門・矢島村林宗右衛門(以上現守山市)、三上村土川平兵衛・大篠原村小沢甚七・行合村小谷忠衛門・小篠原村苗村安右衛門・同沢口丈助・上永原村野依又右衛門(以上現野洲市)が中心になり打ち合わせが行われ、同日開かれていた甲賀郡庄屋会議と同じく『血気に逸らず野洲郡栗太郡の衆は野洲川原に、甲賀郡の衆は横田川原にて待機し、その間に代表者が市野等に直談判の上、市野から京都町奉行所への見分中止の訴願状を提出させる。承諾を得られなかった場合は本陣に押し寄せる。』との結論が導き出された。 甲賀郡の動き 3月20日(4月30日)、水口藩では領内20余ヶ村より見分中止の嘆願書が上がり、同21日にも領内大庄屋他から再度嘆願書が出され、藩では郡奉行樋口七郎兵衛を江戸に送り幕府に対し見分中止の伺いを行っていた。幕府からの回答がない中、水口藩は郡奉行樋口等を三上村に派遣し、市野に対し水口藩として庄屋達の見分中止の嘆願書を幕府に提出し裁定を求めていることから、裁定が来るまで見分は受けるが、見分結果に対する承諾書の提出は待って欲しいとの談合を試みようとしていた。 一方庄屋達は、戸田村で野洲郡・栗太郡合同の庄屋会議が開かれた同日に水口宿の旅籠『万屋伝兵衛』方と『丸屋金兵衛』方の2ヶ所に分かれ、甲賀郡137ヶ村の内70余村の庄屋が集まり会議を開いていた。両会合場所で指導的な役割を担ったのは市原村庄屋田島治兵衛・宇田村(現甲賀市水口町)庄屋藤田宗兵衛・松尾村(現同市同町)庄屋中藪喜兵衛・杣中村庄屋黄瀬文吉と黄瀬平三郎・岩根村大庄屋藤谷弥八と谷口庄内・深川村庄屋田中安右衛門等であった。甲賀郡においては、『江戸への直訴を行うべき』『市野等が甲賀郡に入って来たら斬殺已む無い』など強硬な意見が出たが、『江戸幕府に直訴するには時既に遅い。京都奉行所への訴願では弱い。市野一行を襲うことは双方に犠牲者が多く出る。そこで京都町奉行所への見分中止の訴願状を市野から提出させる。そのために市野等の本陣に人数を出し取り囲む。その間代表者が市野等に直談判を行い、承諾を得られなかった場合は総勢で市野の本陣に押し寄せる。』と野洲郡栗太郡庄屋会議同様の結論が導き出され、各郡指導者間で既に綿密な打ち合わせが行われていたことがわかる。
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