選挙の神様
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 15:28 UTC 版)
熊本に戻ると佐々友房とともに熊本国権党を結党、1896年(明治29年)に党務理事に就任。1902年(明治35年)の第7回総選挙で初当選して政治の世界に足を踏み入れ、以後14回連続当選する。1914年(大正3年)第2次大隈内閣が実施した第12回総選挙で与党立憲同志会の選挙長を務めて大勝し、徳富蘇峰から「選挙の神様」と評された。 立憲同志会の後身・憲政会にも在籍し、加藤高明憲政会単独内閣で逓信大臣に就任した。第1次若槻内閣においても逓相を務め、さらに内相の濱口雄幸が病気になると内相の職務も代行し、1926年(大正15年)暮に予定されていた総選挙への準備を進めた。ところが12月25日に大正天皇が崩御し、皇太子の裕仁親王が即位した(昭和天皇)ため解散は延期。翌1927年(昭和2年)1月、かねてから議会運営に苦慮していた若槻首相が代替わりを理由に三党首合意により総選挙の先送りを図ったため、濱口と共にこれに反対した。若槻内閣の総辞職が近いことを知った安達は、政友会に政権を渡さないために政友本党の床次竹二郎との提携を図ったが(憲本連盟)、4月に金融恐慌で経営危機に陥った台湾銀行を救済するための緊急勅令案を枢密院が否決したために若槻内閣が倒れると、元老の西園寺公望は政友会の田中義一を奏薦したため、安達らの目論見は頓挫した。そこで憲政会は政友本党と合併し民政党が成立することになる。 江木翼など党外人を含む官僚派が主導していた民政党において、安達はこれに対抗する党人派を代表する存在であり、総務の重鎮だった。1928年(昭和3年)の第16回総選挙でも民政党が下野した際に免職となった元内務官僚で組織した選挙監視隊を全国に派遣するなど辣腕を振るい勝利を上げた。普通選挙の導入により党人の威信は向上し、中野正剛や永井柳太郎らを束ねて党の主導権を争うこととなった。 1929年(昭和4年)に民政党単独政権として成立した浜口内閣では内務大臣に就任、続く第2次若槻内閣でも留任した。浜口内閣の内相として1930年(昭和5年)2月に実施した第17回総選挙を指揮した安達は民政党の候補者乱立を抑え、得票数を読んで最大の投票を出すべく調整し、273議席の圧倒的多数を獲得した。
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