参拝
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参拝(さんぱい)とは、神社、寺院、教会、墓廟などの宗教施設を訪れて、神仏や死者に拝む(または祈る)行為のことである。祈願者本人に代わって参拝することは代参(だいさん)、祈願した神社や寺院に参詣せずその方角に向って参拝することは遥拝(ようはい)という。同様の言葉に「参詣(さんけい)」があるが、参拝は拝むこと(身体的な動作)に主眼があるのに対し、参詣は社寺へ詣でること(地理的な移動)に主眼がある。ただし、社寺に参拝するためにはそこへ詣でることになるので、一般には両者は同義の言葉とみなされている。特定の複数の社寺教会を続けて参拝することを巡礼・巡拝という。
参拝作法
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日本の社寺の場合
一般的な参拝作法の大きな流れは、神社・寺院とも以下のようなものである[1]。
- 鳥居や門をくぐる前に一揖をする。帽子を着用している場合は脱ぐ。
- 手水舎で手を洗い、口をすすぐ。神前・仏前に参る前に身を清める行為で、神社の場合は略式の禊(みそぎ)ということになる。
- 賽銭を賽銭箱に静かに入れる。
- 本坪鈴(鈴)/鰐口/錀[注釈 1]などを鳴らす(鈴を鳴らした後に賽銭を入れると説明する人もいる)。
- 拝礼を行う。
寺社によっては上記と異なる参拝方法の場合もあり、多くはその旨の表示がある。
- 出雲大社、宇佐八幡では二拍手ではなく四拍手で行う。また伊勢神宮や熱田神宮には特殊な拍手(八開手)があるが、あくまでも神職のみの作法であり参列者は行わない。
- 神社によっては二拝のうち、前の礼を浅く、後の礼を深くする様に指定される場合もある。
一般には拍手と一拝の間、もしく合掌のときに神仏への祈願などを行う。寺院で手を合わせるのはインド等での挨拶に端を発するもので、拍手とは異なる。神社で祝詞(神社拝詞)を唱える場合は、二拝二拍手と一拝の間に行ったり、再拝の後に祝詞を唱え再度二拝二拍手一拝を行ったりする。
正式参拝
上記は社頭にて行う略式の参拝であるが、他に、拝殿に上がって(昇殿して)行う正式参拝がある。正式参拝は、社務所にて正式参拝を行いたい旨を告げ、拝殿に上がる。神職による修祓、祝詞奏上の後、神前に玉串を捧げて拝礼する。この場合も一般には二拝二拍手一拝であるが、神職の指示に従う。その後、直会として神酒をいただく。
歴史
古代においては、参拝・参詣といえば近所の神仏に参り詣でるものであったが、平安時代ごろから遠方の社寺にも詣でるようになった。平安時代末期ごろから貴族を中心として熊野三山・高野山・伊勢神宮への参詣巡礼が盛んに行われるようになった。特に熊野詣は人気となって多くの人が参詣し、狭い山道を人々が列をなして行く様は「蟻の熊野詣」と呼ばれた。
近世になると、交通網の整備に伴い庶民の遠出が盛んになり、伊勢神宮・金刀比羅宮・善光寺などへ全国から参詣者が訪れるようになった。遠隔地への参詣には費用がかかることから、人々は講を組織し、お金を出しあって代表者が代参を行うという習慣も生まれた。また、伊勢神宮への参詣では、道中で無一文になっても沿道の人々の援助によって旅が続けられるという「抜け参り」という風習もあった。これは、援助をした人も参詣した人と同じ御利益が得られると考えられたためである。
天皇の参拝
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歴史的には天皇が神社を参詣する場合には、行幸の語が用いられる。賀茂行幸、石清水行幸などがそれである。御拝(天皇の拝礼の意。身体的な動作としての参拝)を指す場合には、親拝と呼称する場合がある。親拝とは、勅使を介さず直接拝礼することである(「親」とは「みずから」という意(同様の語例として「親筆」など)。親拝の対義語は「代拝」)。また天皇が神宮や天皇陵を親拝する場合には親謁と呼称する(「親謁」は、帝王がみずから宗廟に親拝することを意味する語である。親謁の語は『明史』『新唐書』『隋書』などの中国古典でも用例を確認できる。)。
参拝に関連した事件
- 源実朝暗殺事件 - 1219年
- 上智大生靖国神社参拝拒否事件 - 1932年
- 彌彦神社事件 - 1956年
- 台湾団結連盟靖国神社参拝事件 - 2005年
その他
人の代わりに、犬に参詣させた例として、金刀比羅宮やお蔭参りが見られる(金刀比羅宮#信仰上の伝統および#お蔭参り(抜け参り)に参加した著名人など)。「ペット神社」も参照。
脚注
注釈
- ^ 梵音具
出典
- ^ 仲尾宗泰「神主ライフ!」(徳間書店、2010年、ISBN 978-4-19-863084-3)205頁
参考文献
関連項目
外部リンク
宮城遥拝
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宮城遥拝(きゅうじょうようはい)とは、日本や大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝、拝礼)する行為である。遥拝する場所は、日本国内(内地)、外地、外国を問わず用いられている。皇居遥拝(こうきょようはい)ともいう。
日本国民が天皇への忠誠を誓う行為の一つであり、御真影への敬礼とともに、宮城遥拝も盛んに行われた[注釈 1]特に第二次世界大戦中には、天皇へ忠誠を介して戦意高揚を図る目的で、宮城遥拝は盛んに行われた。
日本基督教団
戦前、日本のプロテスタント教会は宮城遙拝を偶像礼拝として問題視した。1941年、日本のプロテスタント教会の多くは、日本基督教団に統合されて国家の監督下に置かれ、宮城遥拝も実施された。日本基督教団は皇室が「日本国民の宗家」であることを受け入れ、1942年、教団統理は伊勢神宮の参拝も行った。他方、宮城遙拝を実施しない教会は弾圧され、牧師や信徒は投獄されることもあった(ホーリネスの弾圧は、これとは違う次元で計画、実行され国家方針に不従順な教会に対する見せしめの傾向が強かった)。戦時下、敵国スパイ活動の拠点ともなりかねない教会は特別高等警察の監督下に入り、礼拝の中で君が代斉唱、国旗掲揚、宮城遥拝が行われた。この傾向は大都市より地方ほど厳しく、その地域教会を主管する牧師の思想によっても差が大きかった。戦後50年に当たる1995年には、明治学院が「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」、日本福音キリスト教会連合が「第二次大戦における日本の教会の罪責に関する私たちの悔い改め」を発表するなどした。
インドネシアでの事例
元インドネシア大使で、戦時中は旧日本陸軍の軍政官であった斉藤鎮男はその著書の中で、「頭髪の刈込の制度化」、「日本語の強要」とともに、「宮城遥拝の強制」を日本の軍政が悪評であった具体例として挙げている。スマトラ島東北部にあるスマトラ州メダン市の中心部には紘原(ひろはら)神社(英語: Hirohara Shrine)という名の神社が建設され、ムスリムである地元民にも、西方の聖地メッカとは反対の東に向かって礼拝させた[2]。
脚注
注釈
出典
- ^ 馬新媛、西村正id=国立国会図書館サーチ:R100000002-I000007582199-i4766568「近代日本における道徳教育の変遷」『研究論叢 第1部・第2部 人文科学・社会科学・自然科学』第58巻、山口大学教育学部、2008年、81頁。
- ^ 斉藤, 鎮男『私の軍政記―インドネシア独立前夜』日本インドネシア協会、東京、1977年。NDLJP:12178714。
参考文献
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。
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- 『日本基督教団史資料集』、日本基督教団宣教研究所、 NCID BA33669411。
- 土肥, 昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』新教出版社、1980年。NDLJP:12266985。
- 小野静雄『日本プロテスタント教会史:明治・大正篇』 上(増補版)、聖恵授産所出版部、1989年。 ISBN 4-88077-020-5。
- 小野静雄『日本プロテスタント教会史:昭和篇』 下(増補版)、聖恵授産所出版部、1989年。 ISBN 4-88077-021-3。
- 中村敏『日本プロテスタント海外宣教史:乗松雅休から現在まで』新教出版社、2011年。 ISBN 978-4-400-21316-1。
- 中村敏『日本プロテスタント神学校史 同志社から現在まで』いのちのことば社、2013年。 ISBN 978-4-264-03167-3。
関連項目
「遙拝」の例文・使い方・用例・文例
- 遙拝式を行う
遥拜と同じ種類の言葉
- >> 「遥拜」を含む用語の索引
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