通勤混雑の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:21 UTC 版)
「名鉄7000系電車」の記事における「通勤混雑の激化」の解説
この時期になると、朝夕ラッシュ時の混雑が激しくなり、すでに1967年(昭和42年)からは犬山線でも8両編成の列車が走り始めていた。しかし、名鉄の社内から出た「通勤輸送にまとまった投資を行い、通勤用の新車を作ってはどうか」という意見にも、社長の土川は「それは不経済車である」として、パノラマカーを列車体系の中心として、「クロスシートに座って通勤」という理想像を変えようとしなかった。土川は、財務的現状からも輸送力増強には旧型車両の鋼体化が最適としていたのである。 7000系4両編成を2本連結 両開き扉となったモ7050形7100番台 通勤輸送に対応するため、1973年(昭和48年)からは7000系の4両編成7本については連結化改造が行われることになり、ラッシュ時には4両編成を2本連結した8両編成が走るようになった。1974年(昭和49年)6月には6両編成が2本増備された。また、1975年(昭和50年)には中間車が12両製造されたが、この時の増備車ではロングシートを増加させ、扉も両開きに変更された。形式はモ7050形のままであるが、車両番号は7100番台となった。これによって4両編成のうち6本が6両編成に組成変更されたが、これが7000系では最後の増備となった。 この時点で、7000系は合計116両となり、名鉄の車両では最多両数の形式となっていた。また、7500系の72両を合わせるとパノラマカーだけで当時の名鉄における架線電圧1,500 Vの区間に運用される車両の約3分の1を占めていた。 この時期のラッシュ輸送では、本線では8両編成でないと運用できず、増解結ができないパノラマカーの6両編成は普通列車や支線などで運用させていた。それでもなお、津島線などでは人海戦術で乗客を車内に押し込む有様で、しかもそれでも積み残しが出てしまい、乗客からの苦情も多かった。このような状況下、7000系をはじめとする2扉クロスシートのSR車のラッシュ時運用は、もはや限界であることが明確になった。土川逝去後の1975年(昭和50年)に急遽東京急行電鉄(東急)から3扉ロングシート車を購入し3880系として運用、その実績が評価され、1976年(昭和51年)に3扉の通勤車両である6000系が登場するに至った。 なお、1975年(昭和50年)から800形モ809・モ810で試験を行っていた「名鉄式自動解結装置」(M式自動解結装置)を7000系でも試験運用を行うことになり、7021編成と7023編成を4両編成に組成変更した上でM式自動解結装置の設置が行われた。この試験運用の結果を踏まえ、1977年(昭和52年)2月には7000系のすべての4両編成に対してM式自動解結装置の設置が行われた。
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