近代以降の久志
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:22 UTC 版)
明治5年に大区小区制が施行され、南方郷は第19大区となり、久志村と秋目村で1つの小区が組織された。1879年(明治12年)に郡区町村編制法が施行されたのに伴い、久志村を管轄する戸長役場が久志村に設置され、1882年(明治15年)には秋目村の戸長役場が久志村と統合され、2村連合の戸長役場が久志村に置かれた。町村制施行直前には久志村、秋目村、坊村、泊村を管轄する戸長役場が4村の地理的に中心に位置していた久志村に設置されていたという。ただ、経済的に規模の大きい坊泊から久志にある戸長役場までの交通は不便であり、坊泊地区への移転を主張する意見もあったが、久志・秋目は地理的中心地から移転するのは不平等であるとして反対した。 1889年(明治22年)には、町村制が施行されたのに伴い、南方郷の西部にある坊村、泊村、久志村、秋目村の区域を以て西南方村(にしみなみかたむら)が成立した。これに伴い、それまでの久志村は西南方村の大字「久志」となり、西南方村の役場が設置された。 西南方村が成立したのちも旧来の村の単位で戸主会や総代会が組織された。戸主会や総代会は区有財産の管理を行っていたほか、地域住民の代弁者として村政に対して強い発言権を有するもので、久志には久志総代会が組織された。総代会は区費を住民から徴収し道路の新設改良補助や漁港の修理、学校施設の維持管理など幅広い自治活動を行っていたという。 第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)8月7日にはアメリカ軍のB-29によって久志の今村地区、塩屋地区に対して爆撃が行われ、死者は出なかったものの198戸が焼失した。 1953年(昭和28年)には西南方村が名称を変更し坊津村(ぼうのつむら)となり、坊津村の大字となった。この村名変更に際して「坊津村」への名称変更を推進する坊と泊の住民に対して、秋目と久志の住民は「坊津以外であれば何でもよい」として反対した。この結果村議会で紛争し、最終的には村議会は坊泊と秋目久志に分村を議決する事態に発展した。分村が議決されたことに伴い西南方村は鹿児島県に対して分村申請書を提出したが、申請を受けた鹿児島県は坊泊は経済的に自立可能であるが、秋目と久志は経済的に自立不可能であるとして申請を認めなかった。その後1953年(昭和28年)に地域住民間の感情的な対立が解けたとして、村議会において村名の変更の件が議決されたという経緯がある。 名称変更の2年後の1955年(昭和30年)に町制施行し坊津町となり、坊津町の大字となった。 2005年(平成17年)11月7日に坊津町が加世田市、金峰町、笠沙町、大浦町と合併し新たに南さつま市が設置された。市町村合併の際に法定合併協議会である川辺地区合併協議会における協議によって、坊津町の区域の大字は現行の町名を現行の大字名に冠したものに改称する旨が協定され、合併前の同年10月21日に鹿児島県の告示である「 字の名称の変更」が鹿児島県公報に掲載された。この告示の規定に基づき合併と同日に名称の変更が行われ、大字名が「久志」から「坊津町久志」に変更された。また合併に伴い、久志に所在している坊津町役場は南さつま市役所坊津支所久志庁舎となった。 合併時に設置された南さつま市役所坊津支所久志庁舎は2012年(平成24年)4月1日の組織再編に伴い、久志出張所となった。2020年(令和2年)4月1日にはそれまで旧坊津町役場に設置されていた久志出張所は旧久志小学校跡地に移転した。
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