輪転謄写機と謄写版の普及
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ゲステットナー社から独立したオーガストス・デイビット・クラバーが創業したネオスタイル社(のちのロネオ社)は1898年、謄写器の工程を抜本的に見直し、それまで跳ね上げ式の枠に固定されていたスクリーンと原紙をインク供給機構を持つドラム側に固定して共に回転させることで、ローラーによるインク塗布と枠を上げ下げする工程を完全に省いた、単胴式の輪転謄写機「ロータリー・ネオスタイル」(Rotary Neostyle)を発売。A・B・ディック社も1900年から類似の単胴式輪転謄写機「ロータリー・ミメオグラフ」(Rotary Mimeograph)を発売して追随した。 一方ゲステットナー社は1901年、謄写器の枠の中でローラーを前後に動かしスクリーンにインクを塗布する動作を、インクを供給する機能を持つ2本のローラーに連動してスクリーンが共に回転する動作に置き換えた、複胴式輪転謄写機「ロータリー・サイクロスタイル」(Rotary Cyclostyle)を開発した。 輪転謄写機の完成で印刷効率は向上し、A・B・ディック社のロータリー・ミメオグラフ75型(1909年発売)の場合、1枚の原紙から品質を損なわず2000枚、毎分40~50枚の印刷が可能とうたった。 こうした謄写版の技術革新の結果、これまで多額の資本投下による本格的な印刷設備の整備と熟練の植字工・文選工が不可欠であった高速印刷が、低コストで簡便に行えるようになり、類似した印刷器具を製造販売する後発業者が続出。謄写版は代表的な軽印刷技術として世界中に普及した。1917年のロシア革命における革命運動家の活動に大きく寄与したほか、第二次世界大戦中の欧州戦線ではレジスタンスによる地下新聞の発行にも活躍した。 日本では、1893年にA・B・ディック社の地元で開催されたシカゴ万博を視察した堀井新治郎が、翌1894年1月、ミメオグラフの機構をコピーした自作の印刷用品セットに「謄写版」と命名し、自身の発明品とうたって発表。ミメオグラフに倣った「ミリアグラフ」(Myriagraph)の商品名で同年7月から販売するとともに、国内で特許を申請し1895年に取得した。当時の日本はまだ工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟していなかった。 輪転謄写機を開発したロネオ社や後続のA・B・ディック社は単胴式をとった。A・B・ディック社製で初めて電気モーターを搭載したミメオグラフ78型単胴式電動輪転謄写機(1925年~1930年発売)。 ゲステットナー社は複胴式の輪転謄写機を開発した。スクリーンに原紙が張り付いたまま保存されているロータリー・サイクロスタイル6型輪転謄写機(1902年発売開始)。上下2つのドラムに連動してスクリーンが回転。6型では回転に連動した自動給紙機能も完成した(ヘンドリック・コンサイエンス遺産図書館、ベルギー) レックスロータリー(デンマーク)初期のD-2型複胴式輪転謄写機(ルプリッキメディア博物館、フィンランド) 第二次世界大戦中にノルウェーのレジスタンスリーダー、アウグスト・ラトケ(1925年-)が地下新聞発行に使用していたゲステットナー製輪転謄写機や無線機などの資器材(ノルウェー・ベルゲンフス要塞博物館) オーストラリア・ブリスベン市内で印刷と文具販売を手がけていたジャクソン&オサリバン社(現・ワトソンファーガソン)が第二次世界大戦中に製造したザ・ナショナル単胴式輪転謄写機。ドラム表面のインクバッドが残る(クイーンズランド博物館)
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