軍学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 23:05 UTC 版)
明治35年(1902年)、庄内中学二年次途中で仙台陸軍地方幼年学校(予科)を受験して合格し、入校した。石原は、ここで総員51名の中で1番の成績を維持し学業は優秀だったが、器械体操や剣術などの運動は苦手だった。 明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校(本科)に入校し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を受けた。田中智学の『妙法蓮華経』(法華経)に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。また、東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。 明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入校した。区隊長への反抗や侮辱をするなど、生活態度が悪く、卒業成績は官報によると13番/418名(歩兵科では8番)であった。同期生からは飯村穰(2番、歩兵)、井出宣時(3番、歩兵)、町尻量基(4番、砲兵)、横山勇(8番、歩兵)、百武晴吉(9番、歩兵)、菅原直大(15番、歩兵のちに航空兵に転科)、富永信政(16番、歩兵)、樋口季一郎(25番、歩兵)、安田武雄(26番、工兵)、平林盛人(32番、歩兵)など錚々たる軍人を輩出している。 明治43年(1910年)5月に士官学校(21期歩兵科)を卒業後は、歩兵第65連隊に復帰して、見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここでは、軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、箕作元八の『西洋史講話』や筧克彦の『古神道大義』など、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。盛岡藩家老で明治新政府の外交官だった南部次郎(東 政図(ひがし まさみち))よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には、孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて、共に「支那革命万歳」と叫んだという。 連隊長命令で、陸軍大学校を受験することになった。試験に合格し、大正4年(1915年)に入校することになる。ここでは、戦術学、戦略、軍事史などの教育を受けた。大正7年(1918年)、陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
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