軍団の創立とその拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 00:00 UTC 版)
「黒軍 (ハンガリー)」の記事における「軍団の創立とその拡大」の解説
マーチャーシュの収入が定期的かつ周期的に増えたことから傭兵の数も同じく増大した。歴史上の記録では傭兵が主としていつ軍団となったかは異なる。なぜならば相次ぐ戦争で傭兵の形態が変わり、大部分の兵士は単に戦闘や長きに渡る闘争中に雇われるだけとなった。貴族の連隊、傭兵、モルダヴィアとシレジアを征服した兵士、同盟していたモルダヴィアとワラキアの軍隊の数を数えると、国王は90000にも及ぶ巨大な軍隊を集めることができた(膨大な農民/羊飼いを徴集したにも係わらず、ワラキアとモルダヴィアはハンガリー、ポーランド、後にはオスマン帝国の封臣国のままであった)。貴族が戦場に参加することはその支援が後に金で埋め合わすことが出来るまで無視された。都市もまた、仮に熟練工を提供し軍隊の装備を生産するのなら戦闘税を払うことから解放された。 マーチャーシュは税の基盤を領地から家庭に変え、時には戦時中での2年に1回に王税を集めることで農民の税を次第に増やしていった。封臣国の貢税、西方からの寄付、地方の貴族の戦闘税、十分の一税、都市の税を換算するとマーチャーシュの年の収入は650000フローリンに達したが、他方、その宿敵である規模が強大なオスマン帝国の方は1800000フローリンであった。一般的な確信を比較すると歴史家は、10年間及んだマーチャーシュ統治下の絶頂期であった幸運な年のサイクル出来る事実上の合計した金額は800000フローリンほどであったが、財政の境界が1000000フローリンを超えることは決してなく、以前と同じく共通した数を受け取ったと推測する。1467年にマーチャーシュは税金の蓄積を容易にして支払いやすくするために中身が上質の銀(500%)で重さが半グラムと改良されたディナールを導入することで貨幣システムを改革した。マーチャーシュは同時に金の1フローリンは銀の100ディナールに等しいという割合を再制定させ、それが上手く安定したことから16世紀半ばまで維持された。 軍団は以下の三つに分けられた:騎兵は馬一頭につき3フローリンを受け取り、盾隊 は二重の金を受け取り、後に大部分がチェコ人、ドイツ人、ポーランド人から成ることになる弓隊、軽歩兵、銃兵は皆異なる金額が支払われた。中世の火器はあまりにも高価であったため、マーチャーシュは戦闘を高めるフス派の戦術(守備に基盤を置くもので、歩兵を荷馬車ないし高い大盾の背後に配置して、その一方で騎兵は一貫して敵を奇襲して"中央"を守備するというもの)を好み、弓隊は火打石従兵のために配置され後に戦闘のごく初期に共に参戦した。トランシルバニアの地方の射手、特にブラショフ出身のによる銃砲の生産は役に立ち、これらに分類される歩兵はハンガリー人 が主導権を握ることで安くなった。
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