軍団の縮小・廃止と健児の制
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「日本の軍事史」の記事における「軍団の縮小・廃止と健児の制」の解説
軍団制度および律令制は、大規模歩兵軍を持つ中央集権国家を作り、唐や新羅にも対抗および出兵可能とする、古墳時代から続く政治外交方針に基づいたものだったが、奈良時代末期・平安時代初期に、この方針の見直し撤廃が行われた。鉄の入手も砂鉄を精錬し国内自給する目処がついていた。 また唐や新羅から侵攻される危険も減り、軍団維持の必要性は薄れてきた。新羅に対して宗主と位置付ける律令制の原則論も後退し必要性も薄れてきた。これにともない朝廷内・貴族層で軍団の廃止が議論されるようになった。 また蝦夷(移配俘囚)の優れた騎馬戦闘術が郡司層などへも拡散するなどで各国内で在地の武力層が強力化すると共に、治安が次第に悪化し、群盗に対する臨機応変の対応・治安維持の必要性の比重が高くなった。 そこで、792年、桓武天皇により、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除いて軍団は廃止され、一般農民らの兵役の負担(国民皆兵制)はほぼ廃止されることとなった。 代わって各国内で弓馬に優れたものを選抜する健児の制が布かれ、各国内の治安維持に当たった。健児になるためには、経済力と武芸の訓練を行う時間が必要であるため、古墳時代以来の地方首長層に出自する郡司の子弟と、新たに地方経済の発展により成長を遂げた富豪百姓(田堵)が対象となった。また国司の管理下の移配俘囚も武力として動員され、俘囚の反乱・新羅の入寇などの際に活躍した。 健児の定員は、国ごとに30~100人程度と、数千人に達する軍団よりはるかに少なく、「試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士」となることが求められた。これら健児は弓射騎兵であり、職能的には次代の武士と連続性を持つといえる。少数精鋭化が実施されたとはいえ、健児を動かすには国衙を通じて中央の承認を得る必要があり、運用の柔軟性が向上したわけではなかった。 なお、防人に関しては東国からの徴兵は廃止されたものの、9世紀初めから10世紀終わりにかけて、しばしば新羅の海賊が九州を襲ったため(新羅の入寇)制度自体は存続し、九州の兵士がそれにあてられた。
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