軍団の縮小・廃止と健児の制とは? わかりやすく解説

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軍団の縮小・廃止と健児の制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)

日本の軍事史」の記事における「軍団の縮小・廃止と健児の制」の解説

軍団制度および律令制は、大規模歩兵軍を持つ中央集権国家作り、唐や新羅にも対抗および出兵可能とする、古墳時代から続く政治外交方針基づいたのだったが、奈良時代末期平安時代初期に、この方針の見直し撤廃が行われた。入手砂鉄精錬し国内自給する目処がついていた。 また唐や新羅から侵攻される危険も減り軍団維持必要性薄れてきた。新羅に対して宗主位置付ける律令制原則論後退し必要性薄れてきた。これにともない朝廷内・貴族層軍団廃止議論されるようになった。 また蝦夷移配俘囚)の優れた騎馬戦闘術が郡司層などへも拡散するなどで各国内で在地武力層が強力化すると共に治安次第悪化し群盗対す臨機応変の対応・治安維持必要性比重高くなった。 そこで、792年桓武天皇により、陸奥国出羽国佐渡国西海道諸国除いて軍団廃止され一般農民らの兵役負担国民皆兵制)はほぼ廃止されることとなった。 代わって各国内で弓馬優れたものを選抜する健児の制布かれ各国内の治安維持当たった健児になるためには、経済力武芸訓練を行う時間が必要であるため、古墳時代以来地方首長層に出自する郡司の子弟と、新たに地方経済発展により成長遂げた富豪百姓田堵)が対象となった。また国司管理下の移配俘囚武力として動員され俘囚反乱新羅の入寇などの際に活躍した健児定員は、国ごと30~100程度と、数千人に達す軍団よりはるかに少なく、「試練行なって1人を以て100に当り得る強力な兵士」となることが求められた。これら健児弓射騎兵であり、職能的には次代武士連続性を持つといえる少数精鋭化が実施されとはいえ健児を動かすには国衙通じて中央の承認を得る必要があり、運用柔軟性向上したわけではなかった。 なお、防人に関して東国からの徴兵廃止されたものの、9世紀初めから10世紀終わりにかけて、しばしば新羅海賊九州襲ったため(新羅の入寇制度自体存続し九州兵士がそれにあてられた。

※この「軍団の縮小・廃止と健児の制」の解説は、「日本の軍事史」の解説の一部です。
「軍団の縮小・廃止と健児の制」を含む「日本の軍事史」の記事については、「日本の軍事史」の概要を参照ください。

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