蹂躙と虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 00:37 UTC 版)
ウィリアム1世は1069年のクリスマスをヨークで迎えた。翌年にかけての冬における彼の戦略には、現代の歴史家の中にはジェノサイドという評価を与えている者もいる。 同時代のイングランドの年代記者たちは、この北部の蹂躙をウィリアム1世の最も冷酷な業績であり「彼の魂の汚点」であると記述している。約50年後に、アングロ・ノルマン人の年代記者オーデリック・ヴィタリスは、以下のように記録している(要約)。 王は彼の敵を追い詰めるためには手段を択ばなかった。彼は数多くの人々を斬り殺し、家々や土地を破壊した。他所では、彼はここまでの冷酷さを示すことはなかった。これは大きな転換点だった。恥ずべきことに、ウィリアムは自身の憤怒を抑えようともせず、無辜の人々を犯罪によって罰したのだ。彼は穀物、家畜、農具、食料を焼き、灰とするよう命じた。10万人以上が飢え死にした。私はこの本の中でよくウィリアムを称揚するが、この凶悪な虐殺については何も良いことは言えない。神が彼を罰するだろう。 ウィリアム1世はエアー川以北の地域を破壊して回った。彼の軍は食料を焼いて住民を殺し、反乱兵を追いやった。年明けからは、ウィリアム1世は軍勢を小分けにして各地へ送り、徹底的な放火、略奪、破壊作戦に移行した。ウスターのフローレンスによれば、ハンバーからティーズ川に至るまで、すべての村が焼かれ、住民が殺害された。備蓄食料や家畜も徹底的に排除され、辛うじて虐殺を生き延びた者たちも真冬の飢餓に苦しむことになった。食人が横行したことで、生存者はさらに数を減らしていった。 イブシャム修道院年代記によれば、遠くウスターシャーにまで難民が流れ着いた。 1086年になっても、ヨークシャーやイングランド北部は荒廃したままだった。ドゥームズデイ・ブックには、「荒廃している(wasteas est)」とか「無に帰している(hoc est vast )」などといった言葉が並んでいる。全体では、調査された土地の実に60パーセントが荒地であり、また66パーセントの村に荒地があることが記録されている。肥沃な地域でも、その価値が1066年と比べて60パーセント下落していた。生存者はかつての人口のわずか25パーセントにとどまり、実に8万頭の牛と15万人の人口が消えていた。 また考古学の調査によっても、大規模な破壊や人口減少があったことが証明されている。考古学者リチャード・アーネスト・ミューアによれば、1069年から1071年の間にヨークシャーの住民が硬貨を地下に埋めていることから、この時期に暴力的な社会崩壊が起こっていたことが分かるという。B・K・ロバーツは著書『イングランドの村の起源』(The Making of the English Village)において、ダラムとヨークシャーにおいて数多くの村が類似した構造をとっているのは、ある一時期に人口自然増加に反する大規模な社会再編が起こったためだとしたうえで、そのような事件が平時に起こるとは考え難く、北部の蹂躙に関係しているに違いないと述べている。実際に、ウィリアム1世とともに現れたノルマン人諸侯は、征服地に似たり寄ったりな植民地を築く傾向があったことが知られている。
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