趙興の治世
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紀元前115年、趙嬰斉が病死し太子である趙興が王位を継承した。その母親は樛氏の上王太后であった。紀元前113年、武帝は安国少季を南越への使者として派遣し、趙興と樛太后に対し、内地の諸侯同様に武帝の朝見を受けるように告諭した。この時趙興は幼少であり、また樛太后は中原の人であるため、南越国の実権は丞相である呂嘉の手に握られていた。『史記』の記載によれば、樛太后は趙嬰斉に嫁ぐ前、安国少季と私通しており、安国少季が南越に使者として到着すると再び私通を行い、これにより樛太后は南越で信頼を失ったとある。樛太后は民心の乖離が戦乱の原因になると考え、漢朝の威勢を借り趙興と群臣へ漢朝への帰属を説得し、使者を通じて武帝に上書を提出、内地の諸侯の例に従い、3年に一度長安に入朝し武帝の朝見を受け、また漢との国境の要塞を撤去することを申し出た。武帝は南越の請求を受け入れ、南越国丞相、内史、中尉、太傅などの官印を作成、その他官職を南越国に設けることにした。これは漢朝が直接南越国の高級官吏を任免することを意味した。また武帝は南越国で実施されていた黥刑や劓刑などを蛮習であると廃止し、漢朝の法律を適用し、また南越に派遣した使者を鎮撫南越とし、南越国内の安定化を図った。武帝の諭旨を受けた趙興と樛太后は直ちに入朝のための準備に着手した。 南越国の丞相である呂嘉はこの時かなりの高齢であったが、趙眜、趙嬰斉の代から趙興に至るまで3代にわたって南越王を輔弼し、また宗族も70余人が官職に就き、更に南越王室との婚姻関係により国内で確固たる地位を確立し、また周囲からも信頼されており、南越国の実質的な権力者であった。呂嘉は漢朝に帰順することを一貫して反対していた。趙興はこの独立志向と事大志向の対立を処理することができず、また呂嘉が反乱を起こす可能性を考え、病気を理由に漢朝の使者との面会を拒否し問題を先送りにしていた。しかし趙興と樛太后は呂嘉が先に反乱を起こすことを恐れ、酒宴の席に漢朝使者と呂嘉を招き、漢の使者により呂嘉と周囲の人物を殺害することを企てた。宴席で太后は呂嘉が漢朝に帰属しないことを非難し、その言葉に同調した漢の使者により殺害されることを期待したが、呂嘉の弟正が兵を率いて宮外に待機し、また安国少季他の使者も態度を決めることができずにいた。呂嘉は状況の異常を悟り宮殿を脱出し、これに激怒した樛太后は矛を取って追撃しようとしたが趙興によって阻止された。自宅に戻った呂嘉は、弟の兵士の一部を自宅の守備に用い、病気を理由に再度趙興と使者に面会することはなかった。そして大臣たちと密謀を重ね反乱の準備に着手したのであった。 武帝は南越政権に危機が発生したことを知ると、安国少季ら使者の無能ぶりを叱責し、同時に趙興と樛太后は既に漢朝帰順したことを確認、呂嘉の反乱を鎮圧するために紀元前112年、韓千秋と樛太后の弟である樛楽に兵二千人を与え南越に向かわせた。千秋と樛楽が南越に進入すると呂嘉は遂に反乱を起こした。呂嘉はまず、趙興が幼少であることをいいことに、中原出身の樛太后が漢朝の使者と姦計を図り、漢朝に帰属することを第一と考え、南越国の社稷を省みずに漢帝の恩寵のみを臨んでいると非難し、弟と共に王宮を攻撃し、王の趙興、樛太后と漢朝の使者をことごとく殺害した。
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