趙興の治世とは? わかりやすく解説

趙興の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:23 UTC 版)

南越国」の記事における「趙興の治世」の解説

紀元前115年趙嬰斉病死し太子である趙興王位継承した。その母親は樛氏の上王太后であった紀元前113年武帝安国少季を南越への使者として派遣し趙興と樛太后対し内地諸侯同様に武帝朝見を受けるように告諭した。この時趙興幼少であり、また樛太后中原の人であるため、南越国実権丞相である呂嘉の手握られていた。『史記』の記載によれば、樛太后趙嬰斉嫁ぐ前、安国少季と私通しており、安国少季が南越使者として到着すると再び私通行い、これにより樛太后南越信頼失ったとある。樛太后民心乖離戦乱原因になると考え漢朝威勢借り趙興群臣漢朝への帰属説得し使者通じて武帝上書提出内地諸侯の例に従い3年一度長安入朝武帝朝見を受け、また漢との国境要塞撤去することを申し出た武帝南越請求受け入れ南越国丞相内史中尉太傅などの官印作成、その他官職南越国設けることにした。これは漢朝直接南越国の高級官吏任免することを意味した。また武帝南越国実施されていた黥刑や劓刑などを蛮習であると廃止し漢朝法律適用し、また南越派遣した使者鎮撫南越とし、南越国内の安定化図った武帝諭旨受けた趙興と樛太后直ち入朝のための準備着手した南越国丞相である呂嘉はこの時かなりの高齢であったが、趙眜趙嬰斉の代から趙興に至るまで3代わたって南越王を輔弼し、また宗族70余人官職に就き、更に南越王室との婚姻関係により国内確固たる地位確立し、また周囲からも信頼されており、南越国実質的な権力者であった。呂嘉は漢朝帰順することを一貫して反対していた。趙興はこの独立志向事大志向対立処理することができず、また呂嘉が反乱を起こす可能性考え病気理由漢朝使者との面会拒否し問題先送りにしていた。しかし趙興と樛太后は呂嘉が先に反乱を起こすことを恐れ酒宴の席に漢朝使者と呂嘉を招き、漢の使者により呂嘉と周囲の人物殺害することを企てた宴席太后は呂嘉が漢朝帰属しないことを非難し、その言葉同調した漢の使者により殺害されることを期待したが、呂嘉の弟正が兵を率いて宮外に待機し、また安国少季他の使者態度決めることができずにいた。呂嘉は状況の異常を悟り宮殿脱出し、これに激怒した太后は矛を取って追撃しようとした趙興によって阻止された。自宅戻った呂嘉は、弟の兵士一部自宅守備用い病気理由再度趙興使者面会することはなかった。そして大臣たちと密謀重ね反乱準備着手したであった武帝南越政権危機発生したことを知ると、安国少季ら使者無能ぶりを叱責し同時に趙興と樛太后は既に漢朝帰順したことを確認、呂嘉の反乱鎮圧するために紀元前112年、韓千秋と樛太后の弟である樛楽に二千人を与え南越に向かわせた。千秋と樛楽が南越進入すると呂嘉は遂に反乱起こした。呂嘉はまず、趙興幼少であることをいいことに、中原出身の樛太后漢朝使者姦計図り漢朝帰属することを第一考え南越国社稷省みずに漢帝の恩寵のみを臨んでいると非難し、弟と共に王宮攻撃し、王の趙興、樛太后漢朝使者ことごとく殺害した

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