趙軍の大敗北とは? わかりやすく解説

趙軍の大敗北

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 12:43 UTC 版)

長平の戦い」の記事における「趙軍の大敗北」の解説

着任した趙括は趙軍が大軍であることを恃みに数に劣る秦軍一気叩き伏せようと考え廉頗戦法支持する指揮官全員更迭秦軍に対して攻勢転じた白起は囮の部隊退却する見せかけて趙軍を誘い出し主力部隊迎え撃つ間に予め伏せておいた2万5千の兵で趙軍の退路遮断、更に5千の騎兵分断するという作戦をとった。趙括率い主力秦軍深追いしたために指揮系統寸断され大混乱陥った趙軍は、秦軍猛攻により甚大な被害を受け長平城まで退却したが、白起はこれを包囲した。この報を受けた昭襄王国内壮丁男子総動員して白起援軍送り、自らも前線まで赴いて将兵励ました。完全に包囲された趙軍は46日間兵糧届かず飢えた兵士たち互いに殺し合ってその肉を食らい飢え凌ぐ有様であった焦った趙括僅かに残った健常手勢率いて秦軍突撃敢行したが、全身に矢を射られあえなく戦死する趙括死によって残る趙兵20降伏した大勝利した秦軍だったが国内総力をほぼ費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧もなく、秦に連行するだけの余裕もなかった。また白起このまま戦果拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っていた。このような状況で、死線彷徨い生き延びた趙兵達をこのまま趙に帰せば、秦に恨み抱いた彼等将来禍根となるのではないか白起恐れ少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにし処刑した。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者45上るという。実際に1995年5月発掘調査では大量人骨出土しているが、永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘第一坑の屍体数は130程度、ほかに18坑を発見調査がつつけられ2002年2020年にも多量人骨埋葬穴が発見された。これらの人骨には、武器によると思われる損傷多々見られたため、生き埋め死んだものではないとみられるが、捕虜虐殺よるものか、普通の戦死者集団墓地なのかははっきりしない

※この「趙軍の大敗北」の解説は、「長平の戦い」の解説の一部です。
「趙軍の大敗北」を含む「長平の戦い」の記事については、「長平の戦い」の概要を参照ください。

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