趙軍の大敗北
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着任した趙括は趙軍が大軍であることを恃みに数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと考え、廉頗の戦法を支持する指揮官を全員更迭し秦軍に対して攻勢に転じた。白起は囮の部隊で退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、主力部隊で迎え撃つ間に予め伏せておいた2万5千の兵で趙軍の退路を遮断、更に5千の騎兵で分断するという作戦をとった。趙括率いる主力が秦軍を深追いしたために指揮系統が寸断され大混乱に陥った趙軍は、秦軍の猛攻により甚大な被害を受け長平城まで退却したが、白起はこれを包囲した。この報を受けた昭襄王は国内の壮丁男子を総動員して白起に援軍を送り、自らも前線まで赴いて将兵を励ました。完全に包囲された趙軍は46日間も兵糧が届かず、飢えた兵士たちは互いに殺し合ってその肉を食らい、飢えを凌ぐ有様であった。焦った趙括は僅かに残った健常な手勢を率いて秦軍へ突撃を敢行したが、全身に矢を射られあえなく戦死する。趙括の死によって残る趙兵20万は降伏した。 大勝利した秦軍だったが国内の総力をほぼ費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧もなく、秦に連行するだけの余裕もなかった。また白起はこのまま戦果を拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っていた。このような状況で、死線を彷徨い生き延びた趙兵達をこのまま趙に帰せば、秦に恨みを抱いた彼等が将来の禍根となるのではないかと白起は恐れ、少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにし処刑した。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万に上るという。実際に、1995年5月の発掘調査では大量の人骨が出土しているが、永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘済第一坑の屍体数は130人程度、ほかに18坑を発見、調査がつつけられ、2002年と2020年にも多量の人骨の埋葬穴が発見された。これらの人骨には、武器によると思われる損傷も多々見られたため、生き埋めで死んだものではないとみられるが、捕虜の虐殺によるものか、普通の戦死者の集団墓地なのかははっきりしない。
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