谷田部藩の城下町
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「谷田部 (つくば市)」の記事における「谷田部藩の城下町」の解説
江戸時代には常陸国筑波郡に属し、肥後国熊本の細川氏の分家が谷田部藩を立てて、谷田部陣屋を構え、城下町(陣屋町)を成し、繁栄した。城下町は台町村、新町村、内町村の3村に分かれ、内町村が城下の中心であった。台町が北・東方向からの道路の集約点、西町が南・西方向からの道路の集約点として機能し、両者を結ぶ街路沿いに内町があった。谷田部陣屋は中世の谷田部城とは異なる位置、具体的には谷田部城跡の北の集落に続く低地の明超寺のあったところに築かれた。 細川氏は道路整備や不動松並木の植樹、寺院の建立など城下町としての体裁を整えようとしたが、城下町は家臣が75人しかいないため流通・消費の拠点としての発達はなく、藩命で嘉永4年(1851年)から始めた定期市も大して繁盛しなかった。近在の宿場町・真瀬村の賑わいには及ばなかったことから、「真瀬のようなる在所があるに、谷田部城下とは気が強い」、「谷田部も城下か、タニシも魚か」と揶揄(やゆ)された。小さな城下町ではあったが、民間からは蘭学や絵画で才を発揮した谷田部藩医の広瀬周度(ひろせしゅうたく)や、からくり人形などを発明した名主の飯塚伊賀七という偉大な人物が現れ、不動松並木と合わせて「谷田部に過ぎたるもの三つあり」と言われた。飯塚伊賀七の代表作の1つである五角形の建築物「五角堂」が現代に残されている。 陣屋は中世に存在した谷田部城とは異なり、東西を谷田川・西谷田川に挟まれた地に置かれ、寛文11年(1671年)には陣屋拡張のために明超寺を移転させた。寛政6年(1794年)には文館・武館の2つからなる藩校「弘道館」を設けた谷田部陣屋は、幕末には約120坪(約397m2)の大きさであったとされる。藩政は5回もの江戸藩邸の焼失などにより火の車となっており、土地生産性の低い藩領から厳しい年貢を取り立てて農村を荒廃させていた。その後、改革に成功した細川氏本家の熊本藩より奥方を迎え、二宮尊徳より指導を受けるなどして、幕末には財政を好転させた。
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