谷田部藩の城下町とは? わかりやすく解説

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谷田部藩の城下町

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:15 UTC 版)

谷田部 (つくば市)」の記事における「谷田部藩の城下町」の解説

江戸時代には常陸国筑波郡属し肥後国熊本細川氏分家谷田部藩立てて谷田部陣屋構え城下町陣屋町)を成し繁栄した城下町台町新町内町の3分かれ内町城下中心であった台町北・東方向からの道路集約点、西町南・西方向からの道路集約点として機能し両者を結ぶ街路沿いに内町があった。谷田部陣屋中世谷田部城とは異な位置具体的に谷田部城跡の北の集落に続く低地の明超寺のあったところに築かれた。 細川氏道路整備不動松並木植樹寺院建立など城下町としての体裁整えようとしたが、城下町家臣75人しかいないため流通・消費拠点としての発達はなく、藩命嘉永4年1851年)から始めた定期市大し繁盛しなかった。近在宿場町真瀬村賑わいには及ばなかったことから、「真瀬のような在所があるに、谷田部城下とは気が強い」、「谷田部城下か、タニシか」と揶揄(やゆ)された。小さな城下町ではあったが、民間からは蘭学絵画で才を発揮した谷田部藩医の広瀬周度(ひろせしゅうたく)や、からくり人形などを発明した名主飯塚伊賀七という偉大な人物現れ不動松並木合わせて谷田部過ぎたるもの三つあり」と言われた。飯塚伊賀七代表作1つである五角形建築物五角堂」が現代残されている。 陣屋中世存在した谷田部城とは異なり東西谷田川西谷田川挟まれた地に置かれ寛文11年1671年)には陣屋拡張のために明超寺を移転させた。寛政6年1794年)には文館・武館の2つからなる藩校弘道館」を設けた谷田部陣屋は、幕末には約120坪(約397m2)の大きさであったとされる藩政は5回もの江戸藩邸焼失などにより火の車となっており、土地生産性の低い藩領から厳しい年貢を取り立てて農村荒廃させていた。その後改革成功した細川氏本家熊本藩より奥方迎え二宮尊徳より指導を受けるなどして、幕末には財政好転させた。

※この「谷田部藩の城下町」の解説は、「谷田部 (つくば市)」の解説の一部です。
「谷田部藩の城下町」を含む「谷田部 (つくば市)」の記事については、「谷田部 (つくば市)」の概要を参照ください。

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