議論と第2のモットー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:30 UTC 版)
「ジュ・ム・スヴィアン」の記事における「議論と第2のモットー」の解説
1978年、ジュ・ム・スヴィアンは、ケベック州の車のナンバープレートにつけられていた、観光客を呼び込むモットー「美しい州」(La Belle Province)に取って代わるようになった。歴史家のガストン・デシェーヌによると、この変化により、カナダの主なメディアが、ジュ・ム・スヴィアンに新しい意味を持たせるようになった。 1978年2月4日、ザ・モントリオール・スターの記者ロベール・ゴイエットが書いた「ナンバープレートをめぐる論争」というタイトルの署名記事は、読者の注意を惹いた。そして、タシェの孫にあたるエレーヌ・パケが、ジュ・ム・スヴィアンというタイトルの投書をこの新聞に送り、2月15日の紙面にそれが掲載された。それにはこう書かれてあった。 ゴイエット記者の記事を読んだ限りでは、ジュ・ム・スヴィアンの意味は混同されている。確かにこの記事にあるように、これはE.E.タシェによって作られた詩であるが、ジュ・ム・スヴィアンはその詩の最初の一行にすぎない、これが混乱の元と思われる。その後はこう続く。Je me souviens/ Que né sous le lys/ Je croîs sous la rose.私は忘れない、ユリの元に生まれ、バラの元に育つことを これが読者の方々の混乱を解くもとになればと思う。 ユリとバラは、それぞれフランスとイギリスを表す花である。このモットーは、二行目以降があまり知られていないまま、知れ渡ってしまったというわけだ。1992年にデシェーヌが調査を行うまで、この詩の二行目説が続くことになる。デシェーヌが1992年にエレーヌ・パケと連絡を取ったところ、パケは、かつての投書で引用した詩の出所をはっきりさせられなかった。彼女が述べたことも、州立法議会の議員である、父親のエチエンヌ=テオドール・パケ中佐の考えとは食い違っていた。この人物は、1939年の3月3日、タシェの義理の息子で、州の公共事業の担当大臣でもある、ジョン・サミュエル・ブルケに宛てた手紙の中で、このモットーのことを「我々フランス系カナダ人の価値ある歴史と伝統を、(詩の二行目とは関係なく)3つの単語で言いあらわした」と書いた人物であった。 この二行目の部分は、今では、やはりタシェによって、ジュ・ム・スヴィアンのかなり後に作られた「第二のモットー」とされている。当初は、カナダ国家の記念碑に、この第2のモットーが使われる予定だった。カナダを象徴する、若くて優美な女性が「Née dans les lis, je grandis dans les roses(ユリの元に生まれ、バラの元で育つ)」というモットーを抱いているものであったが、この企画は実現にいたらず、ケベックシティ創設300周年の記念メダルへと変更された。これもタシェの発案によるもので、メダルにはこう刻まれている。「"Née sous les lis, Dieu aidant, l’œuvre de Champlain a grandi sous les roses l’œuvre de Champlain a grandi sous les roses(神のご加護により、ユリの元に生まれた、シャンプランの功績が、バラの元で育って行く、シャンプランの功績が、バラのもとで育って行く)」ジュ・ム・スヴィアンは、英連邦内で王立第22連隊(en:Royal 22e Régiment)のモットーでもある。この連隊はカナダで唯一、フランス語によって指揮される連隊である。
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