講座派の影響下に
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1916年(大正5年)1月1日、栃木県宇都宮市に生まれる。北海道函館市の旧制・北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)を卒業して上京、旧制・東京高等工芸学校(現在の千葉大学工学部)機械科に進学するも、在学中に『文芸街』『ズドン』等の文学運動に関係しており、1936年(昭和11年)7月10日、講座派の一斉検挙であるコム・アカデミー事件に関連し、同誌関係者として浅野次郎、中島正伍らとともに検挙されている。同年、同校を中途退学する。 講座派の山田盛太郎の勧めにより、1938年(昭和13年)9月、満22歳のときに芸術映画社演出部に入社、記録映画増産を背景に1939年(昭和13年)9月に発表された『農村に科学あり』で監督に昇進する。1942年(昭和17年)には、馬場英太郎、加藤泰らとともに、満州映画協会啓民映画部に出向する。同時期、『土俵祭』(監督丸根賛太郎、1944年)、『龍の岬』(監督白井戦太郎、1945年)、『乞食大将』(監督松田定次、1945年)を製作した大映京都撮影所の人物として、同姓同名の人物が混同されているが、こちらは浅野が満映に出向した年に大映に入社しており、出身地(岐阜県)も年齢も異なる。浅野は逮捕歴があるため、監督資格を停止されることもあった。この時代の代表作は『煤坑の英雄』(1943年発表)である。 第二次世界大戦後は、朝日映画社にあって、監督作『君たちは喋ることが出来る』を1946年(昭和21年)に発表する。「言論の自由」を得た戦後の民主主義の時代にいかに「喋る」べきかを説く作品で、左翼傾向が強いとされて、劇場公開はされなかった。1947年(昭和22年)には民衆映画 にあって『解放朝鮮を行く』を発表、その後、東宝争議前夜の東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)で助監督を務めており、チーフの浅野のセカンドについたのちの映画監督の松林宗恵によれば、「左翼の論客で、今井さん(今井正)をやり込めるくらいのマルキスト」であったという。1949年(昭和24年)には新世界映画社(かつての朝日映画社)と労映国鉄映画製作団の共同製作による『号笛鳴りやまず』といったドキュメンタリー映画を発表した。以降、フリーランスとして活動する。
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