講座派の影響下にとは? わかりやすく解説

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講座派の影響下に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:05 UTC 版)

浅野辰雄」の記事における「講座派の影響下に」の解説

1916年大正5年1月1日栃木県宇都宮市生まれる。北海道函館市旧制北海道庁立函館中学校現在の北海道函館中部高等学校)を卒業して上京旧制東京高等工芸学校現在の千葉大学工学部機械科進学するも、在学中に『文芸街』『ズドン』等の文学運動関係しており、1936年昭和11年7月10日講座派一斉検挙であるコム・アカデミー事件関連し、同誌関係者として浅野次郎中島正伍らとともに検挙されている。同年同校中途退学する。 講座派山田盛太郎勧めにより、1938年昭和13年9月、満22歳のときに芸術映画社演出部入社記録映画増産背景1939年昭和13年9月発表された『農村科学あり』で監督昇進する1942年昭和17年)には、馬場英太郎加藤泰とともに満州映画協会啓民映画部出向する同時期、『土俵祭』(監督丸根賛太郎1944年)、『龍の岬』(監督白井戦太郎1945年)、『乞食大将』(監督松田定次1945年)を製作した大映京都撮影所人物として同姓同名の人物混同されているが、こちらは浅野満映出向した年に大映入社しており、出身地岐阜県)も年齢異なる。浅野逮捕歴があるため、監督資格停止されることもあった。この時代代表作は『煤坑の英雄』(1943年発表)である。 第二次世界大戦後は、朝日映画社にあって監督作君たちは喋ることが出来る』を1946年昭和21年)に発表する。「言論の自由」を得た戦後民主主義時代にいかに「喋る」べきかを説く作品で、左翼傾向が強いとされて、劇場公開はされなかった。1947年昭和22年)には民衆映画 にあって解放朝鮮を行く』を発表その後東宝争議前夜東宝撮影所現在の東宝スタジオ)で助監督務めており、チーフ浅野セカンドについたのちの映画監督松林宗恵によれば、「左翼論客で、今井さん(今井正)をやり込めるくらいのマルキストであったという。1949年昭和24年)には新世界映画社(かつての朝日映画社)と労映国鉄映画製作団の共同製作による『号笛鳴りやまず』といったドキュメンタリー映画発表した以降フリーランスとして活動する

※この「講座派の影響下に」の解説は、「浅野辰雄」の解説の一部です。
「講座派の影響下に」を含む「浅野辰雄」の記事については、「浅野辰雄」の概要を参照ください。

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