講武所教授方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 06:23 UTC 版)
幼少より柳剛流剣術を直井秀堅に師事したという(岡田寄良の門人ともいわれるが、岡田は文政9年(1826年)没なので無理がある)。『大日本剣道史』によれば伊庭秀業にも学んだというが、門人になったというほどではないらしい。後に自分の足跡について記した『道のこと草』によれば天保13年(1842年)に江戸へ出たという。 安政3年(1856年)、迫り来る外国勢力に脅威を感じた幕府が、国防策の一環として武芸訓練機関として講武所を開設するにあたり、剣術教授方に任命された。ただし忠敏は、講武所は結局個人の武技を鍛えるのみで、日本の武士は砲術訓練など団体行動の規律を求められる近代的軍隊訓練は向かないとして、講武所自体には否定的な見方をしていた。
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