評価論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:20 UTC 版)
私の評価論は文字通り仮説実験授業の中で生まれ育ってきたものです。「人間は他人の評価の影におびえて人間性を喪失する」という発見には我ながら感動しています。 ひとはたえず自分や他人の考えや行動を評価して生きているのです。自分だけの評価のしかたのなかに、人びとは「自分らしさ」という個性を見いだしているといっても良いかもしれません。私たちは借りものでない、ほんとうの自分自身の評価基準にしたがって生きているとき、はじめて「自分らしく充実して生きている」という実感を持てるのではないかとも私は思うのです。しかし、そういう個性豊かなひとだって、ほかのひとびととは全く無関係に、孤立して生きているのではありません。 どんなひとでも、他人の目、他人の評価を気にしながら生きているのが本当だとおもうのです。 評価の仕方によって人間は自信をもったり、自信をなくしたりするのです。社会や教育が人びとの生き方にまで干渉できるのは、評価の画一化によっててあるといえるでしょう。だから、私は、学校での評価を、毎日の授業の中での評価を問題にしなければならない、と思うのです。 板倉は、評価に関して「どうしてもこれは知っていなければならないもの」や「ここまではいけというもの」を到達目標と名付け、その評価は合格か不合格であって60点とか100点とかいうものではないとした。しかし教師が到達目標として決めるならば、「教師は相当の自信を持っていなければならない」し、「ここまではやるんだ」ということと「社会的要求もあるんだ」というものでなければならないとした。もし子どもが教育の結果教師が設定した到達目標に達しないなら、それは子どもたちのせいではなく、教師が失格というべきで、それができて初めて教育の専門職といえるとした。それに対して方向目標とは「できればできるほどいいという目標」としている。板倉は「到達目標を決めるのはきわめて難しいが、ときにはクラスの何パーセントのものはここまで持って行きたい」というときに教師が設定する目標を「方向目標」としている。たとえば、「音楽の分かるものが3分の1いるといい。でも残りの3分の2をいじめる必要はない。ある子どもは音楽はうんと優れているが、何かはそれほどでもないとか、そういう個性の開発が望ましい」としている。 五段階法や100点法は(評価の)尺度がはっきりしていないときだけ使えば良い。これはある意味指導者が至らないときにのみに使うものである。要するに五段階法の正常分布(正規分布のこと)のグラフ曲線はおかしいわけで、正常分布の曲線の何が正常かというと、これは「自然にほっておけばそうなるべきもの」で、そうならなければ「何か手を加えた」ということになるので、「教育をしている状況においては決して正常分布になるはずはない」として、5段階相対評価を批判した。板倉は「(評価の)尺度は無限にあって、ある尺度が低いからといって子どもをいたずらに責めないことが大切だ」と主張した。
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